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大阪で甦ったオーストリア皇妃 |
西尾雅 |
プロードウェイのヒットミュージカルがツアーメンバーで日本公演されることも最近では珍しくない。が、今回はウィーン版「エリザベート」が旬のキャストを揃えての引越し公演を敢行。会場の梅田芸術劇場メインホールを一時休館してセリなどの劇場機構を大幅に改造する力の入れように(05年に梅田コマ劇場から劇場名を変更する際、クラシックコンサートに備えた音響面の改造を行ったばかり)、阪急電鉄創業100周年記念事業のひとつとして行われた今回の招聘がどれほど期待されていたかわかろうというもの。回り舞台の円内で、三の字様の3つのセリが別々に上下する。火葬されずに埋葬される彼の国の死者はセリと共に地下から甦ってエリザベート殺害犯ルキーニ(ブルーノ・グラッシーニ)の裁判で証言し、皇妃の一生を追想する。盆が回りつつ三層のセリがそれぞれ上下する展開がめまぐるしい。場面転換は素早く余韻を残さない。歌舞伎では見得を切ってストップモーションするのが常道、日本ではその影響か普通の芝居やミュージカルもフェイドアウトしつつ次に移行する。ウィーン版のさっさと次に行く演出は新鮮で、あっけないほど爽快だ。エリザベート暗殺の凶器となったヤスリを巨大化した跳ね橋が自在に上下するのも驚き。ヤスリ横にリングロープが張られ、現世と黄泉をつなぐ跳ね橋を伝ってトート(マテ・カマラス)が姿を現す。ラフな白一色のトートはやんちゃなロック歌手のよう(若き日のエルビス・プレスリーを思わす)。宝塚版の中性的なビジュアル系耽美スタイルと対照的だ。もっとも次の場面以降トートは黒の正装でキメている(ラストシーンで白い衣装に戻る)。宮廷を意識してドレスアップしたトートもまたダンディでカッコイイ。回り舞台の上でさらに回る大小2台の回転台が登場、シーンに合わせてさまざまな装置がその上に乗せられる。フランツ皇帝(マルクス・ポール)の謁見の間ではハプスブルクの紋章である巨大な双頭の鷲が回り、皇妃の寝室の場面では机と扉が置かれ、娼館の回転ショールームともなる。最も印象的な使い方は1幕ラストのエリザベートの登場シーン。4面の額それぞれにダミーのエリザベートが背を向けて立っており、盆の回転と共に彼女らが沈むと、中央に本物のエリザベートが額と一緒にセリ上がって来る。ヴィンターハルターが描いたダイヤの頭飾りをした肖像画生き写しの姿で!!今回の日本公演中にエリザベート役1000回を達成したマヤ・ハクフォートは生前のエリザベートの感情までを身体に染みつかせ、肖像画から脱け出して来る。少女時代から死を迎えるまでを生き抜くマヤは、もはや演技の域を超えエリザベートの魂が本当に乗り移ったかのよう。ウィーンのカフェで新聞やコーヒー、おしゃべりを楽しむ市民はテーブル席ならぬ電動カートに座ってくるくる走り回る。エリザベートとフランツは観覧車で空中散歩しながら愛を交わす。豪華な衣装でクラシカルな宮廷生活を描くいっぽう、映像を多用する演出が現代風(背景写真が観覧車や宮殿に次々差し替えられる)。ポップでキッチュな遊園地感覚を取り入れたのも、テーマである死の深刻さをやわらげるためだろう。映画「第三の男」にも登場したウィーン名物プラターの大観覧車のカゴがハプスブルクの象徴である双頭の鷲にデザインが変更されているのも遊び心。2人の結婚は1854年で、観覧車の完成は97年(エリザベートは翌98年に暗殺される)だからむろん創作だが、ハプスブルクの狩猟地だったプラターで、2人がもしデートしていたらとの想像は楽しい(73年のウィーン万博を機にプラターは、公園として市民に拡大公開された)。が、現実の新婚生活は早々から苦難の道を歩む。詩と乗馬を愛した皇妃は閉鎖的な宮廷の行事が何より苦手。彼女を助けるはずの夫は旧弊な皇太后=母の側につく。エリザベートは夫から見捨てられたと感じる。政治力学よりも嫁姑の争いが観客の通俗的な興味をひくのだが、皇妃という立場なら守るべき義務をエリザベートが放棄していたのも事実。必然的に彼女は孤独を深めるが、成長した息子のルドルフ(ルカス・ペルマン)が父親と対立した際、とりなしを頼む息子の懇願を蹴る。似た者同士と自認していた母親から見捨てられたと感じたルドルフは自害し、エリザベートは深く絶望する。かつてつらい思いをした自分が、今度は加害者の立場で同じ過ちを犯したことを悔いて。因果応報という概念は西洋にもあるのかと思う。洋の東西を問わず運命は回りまわって人に試練を課す。人は己の仕打ちが自分に振りかかった時ようやく痛みに気づく。しょせんは同じ穴のムジナでしかない自分の愚かさにエリザベートは傷つく。ミュージカルではしばしば同じメロディがリフレインされ、同じ感情が甦る。真逆の立場で聞くことになるメロディの使いまわしが効果的だ。ときには同じ曲にまったく反対の意味を持たせる。観覧車でのエリザベートとフランツの愛の誓いは、人生の終幕近くではすれ違ったまま反対の方向へ別れる2艘のボートにたとえられる。同じメロディ(マイナーコードのアレンジに変えられている)が、永遠の愛のむなしさをいっそう強調する。ウィーン版では皇妃の地位にあり、夫から献身的に愛されているにもかかわらず、自分の人生に満足しなかったひとりの女性としてのエリザベートが強調されている。現代の女性が抱える自立と向き合った女性が1世紀も前にいた事実が日本でもロングランヒットした理由のひとつだが、ウィーン版のマヤには男性的といってもいい強さが感じられる。日本でのブームに火をつけた宝塚版のラストでは、より擬人化された美形のトートが死の化身となってエリザベートを天上にいざなう。人間にとって不可避の死が理想の男性との愛の成就に擬せられているのだが(男役が主役の宝塚のために小池修一郎が潤色した)、ウィーン版のトートはエリザベートの内なる幻影にすぎない。つまり常に死を意識し、生の中に死を覚悟したエリザベートの分身なのだ。「葉隠」の「武士道と言うは、死ぬことと見つけたり」に通じるとも言える。けれどもエリザベートは帝国や抽象的な士道に殉じたのではなく、信条である自由を貫いただけ。彼女を輝かせていたのは栄光ある孤独に他ならない。ウィーン版のラストでは、ルキーニに刺されたエリザベートが黒いドレス(息子ルドルフの死後は黒い喪服で通した)をセミの脱皮のように脱ぎ捨てると、その下は真っ白な薄い衣装だけ。羽化を終えた彼女は同じく白い衣装のトートに導かれて、霊廟の地下に還って行く。現実から逃避し続けたエリザベートは、死ぬことでようやく自分を取り戻したのだ。
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