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大食子子子 松岡永子
 ガラクタで埋まったリビングルーム。モノやら記憶やらが積み重なって風通しの悪そうな部屋。
部屋の隅に黒いダイヤル式電話。テーブルには大皿に盛られたカボチャの炊いたのやトウモロコシの煮たの。いかにも久しぶりに帰省する息子たちを待つ老夫婦の古い家。
 三人の息子が妻を連れて帰ってくる。彼らにはそれぞれ互いに言えない秘密がある。長男は盛大な披露宴をやりながらなぜかいまだに籍を入れていない。次男はリストラで現在無職。三男は妻の育児ノイローゼのために娘をよそに預けている。
 そんな隠し事はよくあることで、どうというほどのこともない。日常的なことだ。
 だがこの部屋は日常からずれている。微妙な歪みは、かすかであるぶん不快に軋む。

 外から爆発音が響いてくる。
「あ、あれ、ダイナマイト。鉄道の基地を作ってるんだ。できあがったらすぐ近くを列車が走って、喧しくなるよ」
「いつから工事してるの?」
「いつからって、俺たちが子どもの頃にはもうやってたよな」
「長いのねえ」

 長いのねえ、という言葉をきっかけに時間が止まる。しばらく静止したあと、客席との境に吊られている色見本の日記がボタリと落ちる。時間は少し巻き戻ったところから何ごともなかったように流れ出す。以降、爆発音が聞こえると子どもの頃から続いている工事についての、犬の鳴き声がすると子どもの頃から飼い続けている犬についての同様の会話があり、長いのねえという言葉をきっかけに時間が止まり少し巻き戻されて進み始める、ということがくり返される。

 息子たちが全員揃っても父母は姿を現さない。買い物にでも行っているのだろう。それにしても遅い。
 家の中のガラクタは、呆けはじめた父親がいろいろ拾ってくるからだろ、と息子が言う。
 消防署員が訪れ、モノが多すぎて危険だから避難経路を確保するように告げる。彼は個人的にも親交があるらしく、母親がバイクの中型免許を取ったこと、フラメンコを踊っていることを話す。
 壁に開いた抜け穴から入ってきた青年は、父親が青年三人を相手に私塾をひらいていること、集めたガラクタで発明を試みていたことを話す。
 息子たちに隠し事があるように、父母にも息子たちに告げていないことが当然あるのだ。

 印刷所に勤めていた父親は、塾生たちに仕事場で使っていた手帳のような形の色見本を与え、日記を書くように命じたという。息子たちも、子どもの頃同じように色見本を与えられていた(時間が止まると落ちてくる色見本は彼らの子ども時代の日記だ)。
 父親は家庭教育に自分なりの思い入れがあったらしい。どんなに仕事で疲れていても子どもたちを海水浴に連れ出すことも続けていた。息子たちは、強制される遠泳をありがたく思ってはいなかったが。

 夜が更けても父母が戻ってこないため、捜索願を出すことになる。警察に提出するための最近のふたりの写真はないか。息子たちは顔を見あわせる。
 青年が塾生たちと一緒に撮ったというふたりの写真を持ってくる(アイスクリームを食べるのに夢中になっている、という写真の光景を説明する台詞から考えて、それはフライヤーに使われている写真なのだろう。だとしたら、それはあきらかに息子たちが幼い頃の家族写真だ。塾生は「今」の時間に実在しているのだろうか?)。
 警察はなかなか来ない。どこからも連絡はない。父母は帰ってこない。

 真夜中、消防署員が玄関先で火事が起こったと告げる。逃げ道を失った息子たちははしゃぎながら燃え、焼け落ちていく。

 夜が明けると何ごともない。部屋を埋めていたガラクタもなく、普通のリビングだ。
 蛍光灯のような白々とした朝の光が射す(そういえば昨日の明かりはセピアがかった白熱灯のようだったとこのとき気づいた)。
 警察はゆうべ来て父母の写真を持っていった。鉄道基地はとっくに完成していて、早朝から忙しく動いている音が聞こえている。庭には子どもの頃飼っていた犬の墓がある。すべてが当然あるべき日常の中に収まっている。
 電話が鳴り、父母が見つかったと告げたようだ。

…と、外から爆発音が響いてくる。
「あ、あれ、ダイナマイト…」
光の色が変わる。時間が淀み、父母はまだ見つからない。

 鳴き声はしていても犬はそこにいないだろう。
 父親が話し相手にしている青年たちは実在するか、それとも空想の産物か。そもそも息子たちは本当に帰ってきてここにいるのか。現実とそうでないものが見分けられない。
 記憶は不確かで曖昧だ。あらゆるものの形が歪む。
 わたしも、朝、警察からの連絡を受けた電話が前日と同じ黒電話だったか、プッシュホンに変わっていたか、芝居が終わったあとどうしても思い出せなかった。日常風景には現代的なプッシュホンの方がふさわしい。けれどそこだけは閉じられた昨日の続きのような気もする。

 太宰治に「トカトントン」という短編がある。玉音放送のあと金槌の音が聞こえてきて、白けた気分になる。それからは仕事でも恋愛でも、テンションが上がってくるとその音が聞こえ、とたんに興奮が冷めて何ごとにも興味がもてないという、話。
 この舞台では、音は現実との不整合、違和感を引き起こし、時間が止まる。あれ、おかしいな、と足を止める感じ。だからここで描かれているのは意識の流れなのだろう。
 では誰の意識なのか。一番考えやすいのは呆けはじめているという父親だが、確証はない。可能性としてはこの家自体の記憶だとも、家族写真たちの思い出の物語だとも考えられないことはない。いろいろ考えさせるがそれ以上の手がかりを与えてくれない。かなり不親切。劇中、息子たち夫婦が手にした知恵の輪をただもてあそんでいるのと同じように、謎を解く気なんかないのだろうと思わせる。
 わからないまま放り出されるので、正直後味のいい芝居ではない。
 朝になってすべてが日常に回収されるのかと思ったとたん、迷宮に閉じこめられる閉塞感、いやな感じはなかなかのものだ。

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