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パフォーマー
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会場
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公演日
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ディプレッションとタンサク |
松岡永子 |
わたしはこの作品を初演、再演、そして今回の公演と三回見ている。それは偶然だ。 毎月多数おこなわれるすべての小劇場公演を見ることは不可能だし、あるひとつの劇団を追っかけて見る習慣もない。そんなわたしがひとつの作品の変遷に立ち会うことができたのは単に偶然だ。 おそらく最初は「場所」に捧げられたであろう作品が、公演場所を変え、演出家を変えて公演されることで普遍性を獲得できただろうか。それを確認できる場に立ち会えた偶然に感謝している。 この作品も偶然の物語。秋、雨宿りのために入った喫茶店で出会った行きずりの人々。思い通りにならない日常について互いに耳を傾け、語る。そして冬の終わり、喫茶店が取り壊されたあとの更地で再会しとりとめもない話をする。そんな偶然の出会いの物語だ。 何も特別なことは起こらない。話される内容も特別なことではない。ずっと飼っていた犬がいなくなってしまった話、小鳥と一緒に出ていった彼女の話、職場での不倫も仕事も行き詰まっている話… 初演時、この作品は「カフェとして設えられた場所で芝居をする」という企画の一つだった。 だから一幕(「幕」はないが)の喫茶店のシーンでは、観客は劇中の「店」の椅子に座っており、登場人物たちが目に見えない幻の客として想定している存在としてそこにいた。 閉鎖された劇場あとという設定は、当時OMSを連想させた。 後半の、何もない場所で丁寧にコーヒーを煎れそれを飲む「想像する力」に象徴されるような、演劇に対する思索に満ちていて、門田剛の作品らしい。彼の作品は意味のある「言葉」で語られる。日常を舞台にしているが日常的ではない。ふつう、人は思っていることをすべて言葉にしたりはしないし、語られた言葉が文字どおりの意味を持っているわけでももない。 言葉の意味で満たされた世界を、門田は実にストレートに見せようと(聴かせようと?)していたと思う。 今回の中村演出はもっと「演劇的」だ。 何かを話すとき、話す相手にわざわざ背を向ける。そんな仕草が何度も繰り返された。そういう屈折の表し方は、門田にはなかったものだ。不自然なくらいにきれいに並ぶ立ち位置など、「言葉」以外の部分で表現しようとするものがあったように思う。 劇中いくつか、役者が合唱するシーンがある。以前の舞台では、嵐で山小屋に閉じこめられた人々が小さな火を囲みながら声を合わせて歌うような趣があった。今回は観客に向かって、圧するように歌う。 門田は歌詞を聴かせようとしていた。中村はそれとは別の力を引き出したいのではないかと思った。 劇場全体が白一色。装置も小道具もない。演劇的な「想像する力」を要求する抽象的な舞台。 幕開け、抽象的な言葉で時間と場所を規定するところ。一列に並んで同時に語る役者の中で、初めて客演する小中太だけが少しテンションが違うと感じた。彼女は言葉を発すると表現や感情が外に向かって発散される。Blue,Blue.の役者はかえって内側に入り込んでいく感じがする。 雨宿りのために飛び込んだ風変わりな喫茶店。すでに廃業していて、店主だった父のために雨の日だけ店を開けているのだという男は、何かを語りたがっている。そのまとまりのない話に耳を傾けながら、皆それぞれ自分のことを語り始める。 この場所が劇場であった時代、閉鎖になって搬入口が往時を偲ぶ喫茶店になった頃、そして家出したその店の主人の行方まで、最も多くのことを知っている不動産屋の男は一番何も語らない。今回の演出ではそれが更に徹底して、妙に謎めいて見える。後半は屋外ということもあってか、彼もずっと開放的な雰囲気なのだが。 一幕はあまりに何も終わらないまま終わってしまったような印象で幕を閉じる。 二幕、更地のシーンになるとその白い舞台にいくつかの裸電球が降りてきて点る。そのようすは星空のようにも見えるし、一幕よりも室内めいて見える。だがラスト近く、電灯の光が強くなる一瞬、この空間はとても雄弁に語る。 この部分がこの舞台の中心なのだなと納得する。言葉で説明するのとは違う、納得のさせ方だ。 喫茶店が取り壊されたあと、あの日の人たちに、集まろうと一人が声を掛ける。そこで何かがあるわけではない。結局とりとめもない話をするだけだ。何も解決はしない。ただ一瞬、何かがかよったように思うだけだ。(だがもし現実にこういう交流ができたら、それは希有なことだろう) 物語は秋の台風から春直前の冷え込む日まで。世界は低気圧に押し包まれ、暖かな晴天の日は見えない。明けない夜はないといい、冬来たりなば春遠からじという。夜明け前の空が一番暗いともいう。 今が底なのだろうか。押し込められたような辛い日々はもうすぐ終わるのだろうか。それはトンネルを抜けたあとでしかわからない。今はただ凍えて感覚のなくなった体で立ちつくしているだけだ。 以前の舞台には、微妙な連帯感のようなものが漂っていた気がする。現代的な淋しさの感覚は今回の方が強かったように思う。
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