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自立する女の戦い 西尾雅
歌劇という独自のスタイルを固守するタカラヅカは、いっぽうで最新モードを取り入れる進取の気風も持つ。本作のチラシデザインに森村泰昌を起用し(「愛のソナタ」に続いて2作目)、振付(2場面だが)に伝説のプリマ、マイヤ・プリセツカヤを起用して(H・アール・カオス主宰・大島早紀子を振付に起用した「Endless Love」という作品もあった)時代の波に乗るも上手、話題づくりも抜かりない。

アメリカ留学研修から帰国後はオペラづく木村先生(ご存知でしょうが宝塚では座付き作演出家は先生、出演者は役者ではなく研究科の生徒と扱う)は「ばらの騎士」を月組「愛のソナタ」、「トゥーランドット」を宙組「鳳凰伝」に変換、満を持して今回は「アイーダ」に挑む(バウホール公演「FREEDOM」で「カルメン」を男女入れ替えたこともあった)。今夏は海外オペラ来日や新国立劇場で「アイーダ」上演が続き、四季がディズニー版を年末に大阪から発信することも発表、まさにブームの「アイーダ」の宝塚流アレンジが注目されたが、宝塚のイメージを覆す画期的なメッセージに驚く。

エジプトに捕らわれた敵国エチオピア王女・アイーダ(安蘭けい)とエジプトの将軍・ラダメス(湖月わたる)の禁断の恋に気づくエジプト王女・アムネリス(檀れい)、彼女もまたラダメスを愛するがゆえに。敵味方の王家に分断された3角関係の悲恋に終わらせず、アメリカの侵略戦争とそれに抗するテロ、平和を希求する日本国憲法の有効性といったエンタメらしからぬ生真面目なテーマにまで踏み込む。明らかに同時多発テロを受けての「アテルイ」や蜷川作品のエンタメながら骨太な姿勢の影響。平和宣言を発す新王・アムネリスが蓮の花に囲まれ天上に立ち尽くすラストは蜷川演出に極似。夢を売るべき宝塚乙女がここまで現実に迫るか。いや、時代と並走始めたヅカの進化を両手挙げて歓迎する。

一昔前なら考えられぬ娘役の地位向上にも驚く。原作オペラとの最大の違いはアイーダとラダメスの獄死以降の後日談を加えたこと。エジプト王ファラオ(箙かおる)はテロに倒され、アムネリスが王位を継ぐ。本来のトップコンビならば湖月と檀がカップル、それも娘役は一歩下がってお慕いする役目。が、今回湖月の眼中に檀はなくアイーダ安蘭のみを愛す。アムネリス檀の愛は変わらずラダメス湖月に向かうのだが、彼女が最後に選択したのは男ではなく国。これは現代のキャリアウーマンが結婚よりも仕事を選ぶに等しい。逆にアムネリスの愛さえ受け入れれば国をも手中にできるラダメスは、敵国の女との純愛を貫く。

愛に殉死する男と国を守る女。従来の宝塚の価値観が堂々と反転される。しかも2人の関係は平行したまま相容れない。トップコンビのスレ違いは、宝塚においてベルばらを凌ぐ革命。男に仕える女が宝塚でも死語となる。自立した女は男を愛するが、男に引き摺られることはけっしてない。選ぶべきは自分らしい生き方。これはもう宝塚についに到来したフェミニズムといっていい。

トップお披露目公演ながら湖月、壇とも新専科からの就任。檀は月組で既にトップ娘役を経験、真琴つばさの退団で一度専科に退いての返り咲き。美女揃いのジェンヌの中でもフェロモン系の美貌はとりわけ目立つが、かつては歌、芝居ともそれほど抜きん出てはいなかった。が、2回目の中国公演では事実上トップ・オブ・トップの扱い(中国には男役を偏重するファン層がないので)、日生劇場「風と共に去りぬ」も好評。新王就任の堂々たる佇まい、歌の説得力は大劇場を震わす。

俗に「男役10年」という。女性が男性を演じるために身につける所作や声色の習得にかかる年月の長さを指すが「娘役10年」もあると檀を見て知る。最近では月組トップ娘役に当時わずか研3(研究科3年)の映美くららが就任。男役より早く抜擢、その分若くして退団する娘役だが、研12でめざましい輝きを見せる檀にじっくり育てる必要性を教えられる。最近は男役娘役問わず若手が早期退団する傾向にあるが、ハードな公演スケジュールゆえかと勘ぐったりもする。ひとりひとりの才能を引き出す余裕が欲しいところ。音楽学校を卒業しても芸は一生磨くもの、だから研究科と呼ぶ姿勢にファンも賛同するのだから。

本来なら男役2番手の安蘭が娘役で(もともと歌唱力には定評があり、のびやかな裏声で美しい高音部を聞かせる)、トップ相手役を務め、みずから望んで獄中「心中」して結ばれる。彼女もまた、敵国将軍への愛と祖国愛の相克に苦しむ。それはひとりの女対王の娘という彼女内部のせめぎあいでもあった。個人と組織の絶対的な対立の中、現実のしがらみを捨て、安らぎを自己の解放に託す。正確にいえば、彼女はラダメスという男を選んだのではない。刑が下った彼の死はもはや確実。彼と共に死ぬ自分を選んだと言うべきだろう。つまり、父や国や男や愛よりも自分らしい生き方=死に様を選んだのだ。これはもう葉隠れと同じサムライの論理に他ならない。ここでも自立したひとりの女が描かれる。

新トップ湖月と檀はいわゆる新専科(従来トップは各組3、2番手からエスカレーター式に繰り上がることが多かったが、各組2、3番手をいったん専科に配属、さまざまな組での出演機会を試す)出身だが、従来の専科から参加した一樹千尋と箙(前出)が本作に大きく貢献。一樹はアイーダの父・エチオピア王・アモナスロ。ここで原作と違うのは、アイーダとアモナスロの正体が既にエジプト側にバレていること。捕らわれた彼ら2人の正体が知られていないことが原作では重要な伏線となるのだが現代の感覚でそれは無理。戦ってる当の敵のボスぐらいわかるはず。原作のアムネリスは捕虜のアイーダを身の回りを世話する奴隷として重用するが、それもアイーダの教養と身分の高さを知ってのこと(宝塚では娘役は人材豊富、王女アムネリス付きの女官が多数控えるため、特別待遇の囚人扱い)。最初からアイーダとアモナスロの正体がバレている本作の方が現代人には納得できる。

原作では身分を隠したアモナスロが軍事機密を盗み聞きするが、本作のアモナスロは捕虜となったショックで気がふれた態を装う。ラダメスがアイーダに漏らした情報で警備の手薄を知り、息子=アイーダの兄・ウバルド(原作に設定のない人物)を刺客に放って敵王ファラオの暗殺に成功する。が、代わって指揮を執るアムネリスの大規模な反攻で逆にエチオピアが滅ぶ。焦土と化した祖国を目にして、本当に狂うアモナスロが皮肉でむなしい。アモナスロはフセインかアルカイダ、エジプト軍はテロリズムに復讐するアメリカを映す。鬼気迫る一樹の狂気がテロリストの無残な末路を暗示する。

秘密をアイーダに漏らしたラダメスは責任を取り潔く処刑を望む。自国の王女から求愛されても、みじんもブレない湖月の雄雄しさがここでも光る。アムネリスは愛する男を失う代わりに、国の平和を得る。エチオピアに勝利したアムネリスは平和の継続を願い、今後エジプトから他国に戦争を仕掛けることはないと宣言する。けれど戦争が地上からなくなることがないこともまた彼女は承知する。誰も2人を邪魔しない世界、死に向かい旅立つアイーダとラダメス。2人を見送り、認めることで、アムネリスは平和を願う彼らと同じ地平に立つ。ただ願望し、待つだけで平和を手にすることはできない。それは愛も同じ。それは戦い、争い、奪い取るものだと。アムネリスの誓いは、ノーテンキに戦争放棄を謳うものではない。テロの卑劣さを憎み、いつでも応じる備えと裏腹にある。

オペラに順じほぼすべての台詞を楽曲に乗せるためナンバーは40を超える労作。死後のウバルド(汐美真帆)は戦いに明け暮れた生涯を後悔し、妹・アイーダの平和を求める姿勢にようやく気づき、彼の回想で物語は開幕する。平和への願いをオープニングの彼の懺悔ににじませ、ラストのショー、ラダメスとアムネリスのプリセツカヤ振付のデュエットダンスが和解を象徴する。

キーワード
■戦争 ■テロ ■フェミニズム
DATA

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