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パフォーマー
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会場
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公演日
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追奏曲、砲撃 |
松岡永子 |
この日のアフタートークで作・演出の深津氏から、この作品では距離感のようなものを書いた旨の発言があった。 主人公のかけだし作家を中心にして、最も近いところから 1、肉親(父)に電話したこと。 2、知人が暴力団抗争で殺されたらしいこと。 3、町で見かけていたジョンという名の浮浪者が凍死したらしいこと。 4、米国戦闘機の墜落がただの事故ではないらしいこと。 と、同心円的に広がる世界を描いたということだ。 アフタートークで、作家からこんなに明確に作品解説を聞いたのははじめてだ。 だが、わたしにはそんなふうには見えなかった。「作者はどのような意図でこの場面を書いたのでしょうか」というテストのような設問であれば落第だろう。もっともわたしはただの観客なのでそんなことは気にしないが。 描かれているできごとは前記のとおりだ。ただそれが時間軸にそって順序よく並べられるわけではない。ミナミの町は南の島に繋がり、話をしている目の前の知人は自分の死亡ニュースが間もなく流れることを仄めかす。浮浪者は父親の顔をしている。 ここがどこなのか、今がいつなのか、相手がだれなのか、果ては自分がだれなのかすら曖昧になっていく、醒めぎわの夢のような世界。できごとは世界の中に描かれる「図」ではなく、世界をつくる「地」に見える。 その世界の中で描かれていたのは、一瞬の、とてつもない長さだったと思う。 主人公が子どものころ家を出、今は沖縄で別の家庭を持っている父。ずっと連絡を取っていないその父に、祖母の百箇日法要を知らせるため電話をかける。電話口で自分の名を名乗って、それから父親が「ああ」と応えるまでの一瞬の間。 人間は死ぬ間際には一瞬のうちに一生を回想するという。別に臨終に限らない。思考は一瞬のうちに膨大な時空を往復する。 距離がメートルで測れるとか、時計で時間が計れるというのは思いこみなのだろう。客観的な時間や距離など人間にはない。主体である自分に関わってだけ時間も距離も存在する。それが大切な一瞬であるとき、実感することだ。 主人公は父親に何かを期待しているのだろう。だから父親の返答を待つ一瞬は、世界のすべてを眺めわたすほどの量を持つ。たよりない応えに何かが霧散する。 一瞬を描こうとすればこの舞台のようになるのではないか。 一瞬の思考や感覚を腑分けするように断片的に描きながら緊張感を高めてゆき、やがてすべての時間と場所が現出する一瞬が舞台に訪れる。そこに立ち上がる世界はみごとだ。 そんな夜の夢が醒めたあと、朝の中を一緒に歩ける人がいれば。それで十分だろう。 父親役のアマノテンガイがいい(少年王者舘はよく見ているが芝居をしているアマノテンガイははじめて見た)。彼は現実にいるだろう父親とはまったく似ていない。 言葉には関西イントネーションがまったくないし、沖縄の言葉とも違う。そんなところに桃園会はいつも神経質なので確信犯なのは確実だ。彼はどこにもいない。正確にはどこの場所にも属していない。 そんな「虚」の存在がこの物語にはぴったりだ。
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