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パフォーマー
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会場
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公演日
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ショーン・レノン対地底人 |
松岡永子 |
物語を構成する要素はこれまでのA級Missng Lingの作品と共通するものが多い。大学映研部、自殺癖、リストカット、DVを伴う共依存、など。メタレベルの物語が入れ子になっている構造もこれまでと同じだ。 だが、確かにこれまでとは違う作品になっている。 幕開き。アリスと兎と帽子屋が奇妙なトランプゲームをしている。 …実はこれはネット仲間によるコスプレ。彼らはネット心中のために防空壕だったこの地下室に集まっている。一時期キノコ栽培に使われていた地下室にはそこそこの広さがあり、電気もきていて明るい。 チャールズ氏を加えた四人が今回の心中参加メンバーで、睡眠薬を飲んで練炭自殺する予定だ。彼らの見る夢、思い出も同じ舞台で展開する。 …というのが大学生による自主制作映画のストーリー。 この映画は映研部員だった山口追悼のためのものでもある。映研、文芸部、バンド活動など、さまざまにかけ持ちしていたしていた山口はエキセントリックな人物で、自殺未遂を繰り返していた。その彼がとうとう自殺した。お前が本当に死んだら映画にしてやる、と勢いで言ったことのある藤川は約束を果たしたいと思っていた。山口の恋人でもあった伊藤は夢日記を書いて藤川に渡しており、それを原案に藤川が映画台本を書き上げる。 一人の女が抱えている物語を男が脚本にする。その構造は前作の「決定的な失策に補償などありはしない」と同じ。演じている役者まで同じだ。 男の方は微妙な恋心を抱いているらしいことも同じ。 女の方は彼のことなど眼中にない。自分の中の思いだけを見つめている。女は雨が降るとやってくる。見るからに不安定。唐突に、叩いてよ、と言い出す。山口とはDVという共依存関係だったらしい。 男が戸惑いながら、ぺし、と女の頬を叩くとバチンと殴り返される。 「目ぇ覚めたわ」と平然と言う彼女と彼の間では、山口との間にあったような関係は成立しないらしい。 映画の中で伊藤が演じているアリスはミュージシャンの恋人を自称しており、その所属バンドは山口の参加していたバンドと同名だ。そのミュージシャンも山口も防空壕で練炭自殺を遂げている。 アリスの自殺企図と伊藤のそれはパラレルに進行していく。 映画の中で語られる自殺理由は、ネズミ講に引っ掛かって金も友人もなくしたとか、引きこもりの果て暴力的な更生(を自称する)施設に放り込まれたとか、ロリコンで妻に見放されたとか、典型的な現代の問題を並べたようなものだ。 映画の中で、「死なないでくださいよ、オレ淋しいですよ」という台詞に自殺志願者は「俺はお前を寂しがらせないために生きてるんじゃない」と応える。 どんな言葉がひとを引き留められるのか、作家は探っている。 練炭に火をつけ薬を飲み…目が覚めると火が消えている。 入り込んだフシギ少女が消してしまったらしい。少女は自分をノーム(地の妖精)だといい、この場から立ち去るためには魔術が必要だという。むかえにきた女は、少女は近くの施設の患者だというが、心中メンバーの一人は少女の言うとおりの大樹や大蛇を見ている。 少女の妄想(?)につきあわされてぐったりしたメンバー達はいったん帰ることにする。 ただ一人残ったアリスは「あーあ、死ぬときもやっぱり一人か」と言って再度自殺を決行する。 この後の展開には二パターンあるらしい。 アリスは植物状態になり、見舞いにきた兎を姉がむかえる。姉はアリスにそっくりで、わたしはあの子を理解していて何でもしてやった、と共依存の関係を語る。 もう一つのパターンではアリスは死亡し、弔問に訪れた兎を姉がむかえる。姉はアリスに少しも似ていなくて、わたしはあの子を理解してやれなかった、と悔いと淋しさを語る。 映画完成の打ち上げの席。はしゃいでいた映研部員達は、いつのまにか伊藤がいなくなっていることに気づく。宴会を抜け、みんなで手分けして彼女を探すことになる。 映画のシーンの中に入り込んだ伊藤はアリスと同じように防空壕から兎を追い出し、アリスの台詞をなぞっていく。 「死ぬときもやっぱり一人か」と最後の台詞を言ったとき、藤川が現れる。藤川は、いつかと同じように伊藤の頬を叩き、同じように殴り返される。 「目ぇ覚めたか」「まだ」と殴り合いは藤川がダウンするまでつづく。「そばにいていつでも目ぇ覚まさしたるから一人で行くな」と藤川が言う。 自称ノームは魔術には三つのものが必要だと言う。 「言葉。空間。肉体。」それはまさに演劇に必要なものだ。 呪文は強力だから気をつけろ、特に逆から唱えるのは、言う。逆から唱えたその言葉は 「虚構はひとを救うか」 ひとはひとを救うことができるのか、というか、そもそもひとは救われることができるのだろうか。正直わたしは信じていない。 だが彼らは信じているのだろう。そのことは信じられる。 前作「決定的な失策に補償などありはしない」はこれまでの方法の延長線上での集大成だった。何を語るかよりもどう語るか、その手つきの鮮やかさに興味があるのではないかと思わせるところもあった前作と、今作はいろいろな点で共通していながら、手触りというか皮膚感覚が明らかに違う。痛いはずのことが確かに痛い。 完成度としては前作に一歩を譲るかもしれない。だが、巧みにやってのけるという方向ではなく、ストレートで勝負しようという真摯な姿勢が好ましい。 前作にもあり、これまで何度か使われてきたシーン。女が寝ている男の顔を踏んでいる。 これまでは顔はあらかじめ踏まれていて、女が、足をどけたらパンツ見るからどけないと言う。今回はラストシーンで倒れている藤川が傍に立つ伊藤に、あパンツ見えた、と言い、顔を踏まれる。 これまで見えなくていいと思っていた、思おうとしていたことを見ようとしたのだろう。 ところで。 地下室で藤川が伊藤と向きあったときに、多用されている反復手法に沿うなら頬を叩くのだが(実際そうだったが)、ここでは抱きしめるのではないかと思った。 それが女の子のロマンティシズムで、恋愛という幻想につながるものだ。ただしそんな恋愛は共依存に化けやすい。 簡単な方を選ばない(意識しての選択ではない気もする)のはえらいけど、彼の恋は実らないのだろうな、と見ていて思った。
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