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きょうも恋唄 松岡永子
 あいかわらずこくのある人情劇だ。
 劇中、何か事件が起こるわけではない。むしろ「何か」は起こってしまったあと。小石が投げ込まれて揺れている水面が静まっていくような話だ。

 井戸からは塩分の多い水しかでず、生活用水を船で運んでいる小島が点在する瀬戸内。だが、島に海底を通る水道管が引かれたため、これまで水を運んでいた水道丸はフィリピンへ曳かれていく(そこではまだ水を運ぶ船に需要があるらしい)。
 その朝の物語。
 漁港で働いている人たちがラジオ体操をしている。
 水道丸船長の息子が五年ぶりにふるさとに帰ってくる。船が曳かれていくことを新聞で読んだからだ。現在大阪で働いている彼は漁港で働く昔なじみたちにあたたかく迎えられる。だが、彼はまだ父親には会っておらず、姉への態度がおかしい。姉は三年前、子どもを連れて大阪から戻ってきている。

 蟷螂襲の戯曲はノベライズすれば秀作になるだろうといつも思う。小説向きの言葉だ。
 海の光る様子や朝の明るさなどの叙情的な描写の台詞も美しい。ラスト近くの長台詞。日常を重ねながら手あかに磨かれなめらかになっていく手すりにすがって、明るい方へ明るい方へと一段一段上っていく、そんな想いの語りも感動的だ。

 その骨組みのしっかりした端正な、逆にいえばやや硬い台詞は役者にそれだけの力量を求める。この台詞は、言葉をムードで流したりできないし、しない。 ひとつひとつの言葉をきちんと伝えようとする。書く者もそれを語る者もとても誠実なのが伝わってくる。
 誠実さは登場人物に関しても同じ。
 この芝居の中には悪意や虚栄はなく、自分の弱さや嘘を隠すことを恥じる者ばかりだ。だれもいいかげんには生きていない。

 姉が未婚の母になったのは愛していたからだし、それは昔も今も少しも揺らがない。
 偶然、水商売姿の姉を見てしまった弟が何も聞けないでいたのは、ただ、自分の悪い想像に怯えていただけだ。
 妻の連れ子だった姉と実子の弟を、それと悟らせず父親は育てた。博愛や偽善、気負いではなく、血縁なんてどうでもいいと彼が考えていたからだ。ともに暮らすこと、思い遣ることで家族になるのだ、というのは彼の願いだろう。
 もうすぐ前妻の娘を迎えることになっている漁港の仲間もふくめて、とまどい、すくんではいても逃げ出さない。逃げようとする自分を正当化することはけっしてしない。

 この芝居に欠点があるとすれば語りすぎることだろう。
 近頃、説明過多な芝居はよくある。若者に多い、全画面をすべてクリアして進もうとする(しなければ進めない)ゲーム的な思考によるものとは、この舞台は違う。たぶん、言葉への想いが深すぎるのだ。
 言葉は芝居の誠実さの源でもある。
 だが同時に、全編が言葉で埋めつくされて、余裕やあそび、無駄かもしれない隙間がない。

 その重みのある言葉を、役者はよくこなしている。
 破鐘のような声で、転んだ子どもに立てと呼びかける姉はまちがいなく逞しい母親だし、弟の、どこか湿った粘るような口吻は、姉の服の裾をつかんで隠れていた甘えん坊の幼い頃をうかがわせる。
 だからこそ。役者という器の縁ギリギリまで言葉で満たしてしまわなくても、充分魅力的に見せられるのではないかと思う。
 父親が一番かっこよく見えるのは、自分の想いのすべてを台詞としては語らないからだ。

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