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裏山の犬にでも喰われろ! 松岡永子
 舞台上にはちょっと古びた感じの部屋が一つ。その部屋を舞台に、いくつもの物語が折り重なって展開する。
 それぞれの物語の中の部屋は、空間的に隔たった別の場所にある部屋であったり、時間的に隔たった同じ部屋の数年前の姿であったりする。
 A級MissingLinkの舞台ではいくつもの物語が不即不離の関係を保ちながら平行して進んでいく。みごとなパズルだ。毎回、実によくできている。あまりによくできすぎていて、彼らの興味は緻密で複雑な物語構造の面白さを見せること—何をやるかではなく、どんなふうにやるか—にあるのではないか、と思わせるところがあった。
 だが、そうではない。語りたいこと、訴えたいことがあるのだ、ということを今回はストレートに示していた。

 展開される物語のひとつは、稽古場に使っていた部屋から劇団が引っ越していく風景。劇団は解散するのだが、主宰の女性は次回やりたい芝居について語る。解散する劇団の話を、それまでやった芝居のシーンをオムニバスではめ込んで、と。今やっているこの芝居のことをいっているようでもある。
 その引っ越しの手伝いに来ている大学の後輩は、市民参加劇のためにワークショップで脚本を共同執筆している。その内容はこの芝居にそっくりだ。

 確かに入れ子構造にはなっているが、どれかがどれかの劇中劇というわけではない。ひとつの世界のできごととして合理的にとらえようと考えていくと細かいつじつまが合わなくなってくる。
 なあに気にすることはない。世界は多様で豊かで矛盾をはらんでいるのだ。

 そんな多様な世界への信仰を守る魔女の姉妹が部屋に引っ越してくる(かれらは「それ」を「自然」と呼んでいたような気がするが、自然というと「文明」や「人為」と対立するもののように聞こえるので、ここでは仮に「世界」と表記することにする。「それ」は何とも対立しない。すべてであり、またなにものでもないものだ)。 彼女たちの師でもあり伯母でもあった先代魔女も、この部屋に住み土地神を祀っていた。浮浪者狩りを止めようとして伯母は殺された。そのため放置され荒れていた場を鎮めるため、彼女たちは再び辻神を呼び出し、祀ることを約束する。

 多神教、というより汎神論的神と人間を繋ぐ彼女たちのような存在を、日本では伝統的に、巫女、と呼ぶ。だが魔女と称することで、劇中引用される『マクベス』や『夜叉ヶ池』と呼応することになる。
 魔「女」という言葉にもこだわる必要はない。魔女は女とは限らない。
 だが、死んだ伯母の息子(彼女たちのいとこ)は、わたしはリタイアした者だ、という。どうやら彼は、母親を殺したヤクザ者に占い師として近づき、マクベスの魔女よろしく分不相応な野心を吹き込んで死に追いやった、らしい。
 個人的な理由で力を使ってはならない。復讐はわれらのわざではない。という魔女の掟を守れなかった彼は、魔女であることを降りた。そして、こんな割に合わないことを彼女たちに続けさせたくない、という。

 魔女は共同体の周辺にいて、生産活動に直接には参加しない。
 その点では作家や劇団も魔女と同じだ。創造は決して生産ではないからだ。かれらの活動はどこか深い底流で人間の生活を支えているはずだが、目には見えない。ややもすると無為徒食の徒として非難されることになる。食べていくのは難しい。

 先代魔女殺しの主犯は対立組織に殺されたが、仲間は逃げた。追われているそのひとりは、見知らぬ女の部屋に匿われている。彼女は一切の事情を尋ねない。ただ、外へ出て働かないなら家事をせよと要求し、自分の主張が正しいことを裏付けるような本を課題図書として与える。

 彼女はその本に書かれているようなフェミニズムの言葉で語る。
 曰く。
 多様で豊かな女の性を、生殖器のみに限定し矮小化しようとする男の性の暴力性と抑圧について。これは、多様で豊かな自然から都合のいい部分だけを切り離して利用している人間の喩でもある。
 このフェミニズムの言葉は自分が守ろうとするものから、とても遠い。
 彼らは世界のほんの一面を切り取って切り捨てている、と告発する言葉はある事態を切り取っており、その攻撃性は拒否したがっている男根主義と相似だ。切り取った世界の傷口を見つめその痛みを感じながら、大切に思っている世界の多様性から隔たりながら、多様な世界を守ろうとする言葉。その攻撃性も世界がはらむものではあるが。
 世界は無限に多様であり、小説でも演劇でも表現するということは多様な世界からその一面だけを切り取り切り離すことだ。
 そして劇評とは多様な舞台世界の一面だけを切り取ることである。

 稽古場を手放し演劇から離れようとしている劇団主宰者に、元劇団員の男が経済的援助を申し出る。別の劇団員からの同様の申し出を断っていた彼女は、彼の申し出も断る。
 今ではすっかり演劇から足を洗って俗っぽく稼いでいる彼は、昔やった芝居のここだけは憶えている、と『夜叉ヶ池』の台詞を暗唱する。夜叉ヶ池に住む魔物との約束を人間が忘れていないことを示すために日に三度、鐘をつく、そんな民話の世界に今の自分は生きているのだ、と晃が友人に語る場面。
 自分はそんな割に合わないことはつづけられなかったけれど、貴女には鐘をつきつづけてほしいのだ、と彼はいう。

 ヤクザの男を匿っていたのは妹の魔女であり、先代魔女が殺されるのを傍観していた男に復讐するつもりだった。姉の魔女に伯母の使い魔だった犬の生まれ変わりだといわれ、想いを託された青年が、それを引き止める。

 夜叉ヶ池の魔物との約束を忘れた村は水の底に沈んだ。愛する百合を殺された晃は人間のために鐘をつくことをやめ、むこうの世界にいってしまった。
 だが、この芝居の魔女たちは辛抱強く関係を結び直そうとする。投げやりにも見えるタイトルに反して彼らは決して投げださない。愛する者を殺されてなお、人間の生活のために土地神を祀ろうとする。
 復讐はかれらのわざではない。かれらは裁くことをしない。

 だからこの芝居には機械仕掛けの神は登場しない。

 市民劇のためのワークショップ主宰者である演出家の言葉を、わたしは作家自身の決意表明と聞いた。
—個人的な理由で始めたけれど、今では本当に演劇が好きなんだ、どうしたら恩返しができるかを考えている。—
 演劇、という言葉を、世界、や、人間、と置き換えてもいい。これは正しく魔女のわざだ。個人的な理由から鐘をつくことをやめた男とは反対の方向にむかい、彼は鐘をつきつづける方法をさぐっている。

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