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パフォーマー
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会場
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公演日
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血に濡れた20世紀 |
西尾雅 |
維新派が野外に帰ってきた!夏は水泳客で賑わうびわ湖畔に建つ丸太が目に飛び込んだ瞬間、懐かしさが胸にあふれる。さいかち浜に足を踏み入れたのは実は初めて、なのに大阪城公園や南港フェリーターミナル ふれあい港館横の駐車場、熊野本宮大社(大斎原)、室生村グラウンド、瀬戸内海犬島の精錬所跡地などさまざまな土地に足跡を残した維新派の思い出と重なり、風景の既視感に早くもとらわれる。むろん維新派としても水上舞台は初の試み。いや「nostalgia」直前の平城宮跡でのライブを除けば、本格的な野外公演は「キートン」以来4年ぶり。湖を借景に役者が足を湖に浸すシーンに目を見張るが、それは「水街」で川を作り上げた維新派の変わらぬ水への想いの再確認ともいえる。水こそ生命の源、歴史もいわば時という川の流れ、人はそこに浮かぶ泡だ。「水街」で南西諸島から大阪市大正区へ、「nostalgia」で日本から南米へ、人は海を渡る。そう「カンカラ」で私たち観客も、維新派とともに瀬戸内の島を目指し海を渡ったではないか。維新派を観ること、追い続けること。それが既に漂流の始まりかもしれない。人生はトランクを提げたひとつの旅、とうとうと流れる水のごとく。近畿の水甕であるびわ湖での公演は、たしかに旅し続ける維新派と私たちの必然の出会いといえよう。階段状の客席から、波打ち際に設けられた舞台が広がる。客席から見やすいように舞台後方がせり上がった傾斜舞台を八百屋と称するが、湖に向かってしだいに下がるこれは、初めて見る逆八百屋の舞台。開演前の暗い中、わずかな対岸の明かりが漆黒の湖に映り、客席の気配も水面に吸い込まれる。ちなみに客席も舞台同様の青天井、雨天時は全員カッパ姿の観劇を余儀なくされるが、今晩は13夜の月を仰ぐ。前回から始まった20世紀3部作を引き継ぐ今回の第2部にも、巨大な帽子男「ノイチ」が登場し「戦争の世紀」を文字通り俯瞰する。ナチスの台頭から第2次大戦中は戦場となり、戦後もソ連の支配下に置かれ、蹂躙され尽くした東欧が今回の舞台。第1次大戦で瓦礫と化した街で戦災孤児たちの友情は厚く、かっぱらいをしつつもたくましく育つ。が、新たな戦乱である者は死に、生き残ったある者は共産主義下で理想社会建設を目指し、ある者は傀儡政権の独裁に反対するテロリストとなる。運命の分岐点で別の道を歩んだ旧友が迎えた悲劇の再会とは。シンプルなストーリーは、けれど一糸乱れぬ役者の独特の動き、美術装置のめまぐるしい転換、そして自在な変拍子の音楽と相まって豊饒な映像詩とも呼べるパノラマを展開する。それはさながら湖面を背景に動き出す絵画、あるいは撮影中の映画ロケのようだ。ノイチが歴史を遡り、垣間見たのは戦争で傷ついた20世紀の深い爪痕。紐解かれた立体絵巻物はまさに秋のひと夜の悪夢、そこにはまがまがしくも美しい悲しみが満ちあふれていた。前作同様、繁雑に旧約聖書が引用される。バベルの崩壊から始まる言語と人類の分裂、そしてカイ、アベル、イサク、オルガと呼ばれる登場人物の名前。党の幹部を狙ったカイの銃弾は、旧友アベルを貫く。アベルの恋人となったオルガのプレゼントしたコートを着た後姿が幹部そっくりなため、カイは致命的な人違いを犯したのだ。アベル殺しのカインの悲劇が、またも繰り返される。人の愚かさ、その浅知恵や欲望をあざ笑うかのように乱舞する悪霊たち。それはヒエロニムス・ボスの絵に登場する怪物にどこか似ている。運命に翻弄され罪を重ねる私たち。争いの火種は尽きず、今も戦乱がなくなることはない。それもまた人類の背負った業であり、歴史なのだろうか。ラスト近くで客席下から流れ始めた水はしだいに増え、やがて舞台一面を覆いながら、びわ湖へとそそぐ。水びたしとなった舞台面を、震えながらのけぞり、横たわりのたうちながら役者たちが足と手で激しくたたく。客席まで飛び散る水しぶきは噴き出す血しぶき、とうとうと流れる水流は血まみれの人の歴史だ。殺された兵士や民衆の無念はむろんだが、殺した側も痛恨にあえぐ。私たちはどこまでカインの末裔なのか。
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