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ヌンチャクトカレフ鉈鉄球 松岡永子
 6月に『深海幽泳ルサルカ』を見た。
 竹内の物語を基に和田が音楽、本郷が映像を作り、ライヴ上演・演奏する。要するにデス電所から役者を除いたような公演。
 物語の内容は会場で渡されるCD付属の文章を読まないとわからなかっただろう(わたしは開演までの待ち時間に読んだ)。上演中台詞は一切なし。物語の一節を書いたものが映像の中に使われていたがタイポグラフィとしての扱いで、まとまった意味を取ることはできない。もっとも物語はわからなくても、音楽、映像、照明だけで十分楽しめたし、和田ファンのわたしとしては音楽だけでも十分満足だったのだが。
 以前のデス電所は、劇中歌の詞をすべて当日パンフレットに載せていた(デス電所の歌は比較的聴き取りやすいのだが、耳で聞いてすべてを理解することは難しい)。理解されたいからだろうと思っていた。登場人物すべてのその後を劇中で示した作品を見たときもそう思った。
 わかってもらうために、描いている世界の端から端まで丁寧にきっちり説明する。だが語りたいことをより詳しく説明したからといって、より多く理解されるわけではない。
 今、パンフレットには歌詞は載っていない。
 たぶんそれでいいのだと思う。今回の芝居ではもうちょっと説明してほしいところもあったが。

 小学校校庭で焼死体が見つかる。遺体と思われる男性の姉妹3人は、遺体確認にも事故・自殺の心当たりにも、さあ、と曖昧な返事をするばかり。家族なのにと責められても、家族だから親しいとは限らないのだ。
 兄は毎夜妹に暴力をふるっていた。長女・香月はその暴力をすべて受けいれ、黙って耐えていた。彼女は死なないからだ。夜ごと兄に殺された彼女は夜ごと生き返る。
 焼死体の見つかった小学校では、昔、侵入した不審者による児童殺傷事件が起きている。雨に降り込められたこの町は過剰な暴力に溢れている。題名に過剰な武器が溢れているのと同じだ。

 芝居冒頭、いつものように歌と踊りで携帯電話の電源を切るようにといった観劇の注意がある。そのあと、「この物語はフィクションであり」と繰りかえして歌い踊り、ここでは誰も死なないのだと派手に宣言する。
 この世界では殺しても誰も死なない。
 死ななかったら殺してもいいのか? いやいやいかんだろう、死なないからって殺しちゃあ、とわたしは思う。

 ネットやゲームなどに浸りきった人間がフィクションと現実の区別がつかなくなって人を殺した、などという言説がある。区別がつかなくなることなどあり得るのかという点はひとまず置いて、そういうことを言う人にとっては、フィクションなら殺人が許されるということは自明の前提なのだろうか。それは殺しても死なないからなのだろうか。
 フィクション内での殺人は当然ある。ある種のホラーのように殺すこと、殺されることを娯楽として描くことも、わたしは「あり」だと思う。だがそれは、死なないから殺してもいい、というのとは違う。
 これはわたしの倫理感覚である。「感覚」なので逆撫でするものにはひどく不快を覚える。
(念のため言っておくと、わたしが不快なのは死ななければ殺してもいいじゃないという異見ではない。そのことに疑問をもてないデリカシーのなさである。死ななければ殺してもいいかという問いを立てることはそんな無神経さとは無縁な証拠)

 香月は片足の不自由なヤクザが板前をつとめる小料理屋で働いている。
 三女・野乃香の恋人は警官なのだが、彼は板前に借金があり、そのカタに彼女を差し出す。それでも自分が空っぽな野乃香は男から離れることができない。
 スプーン曲げ少女としてTVに出た次女・由香里はそのままタレントになっていたが、仕事がなくなって町に戻ってくる。

 姉妹の間にも確執がある。野乃香は由香里を、ひとりだけ遠くにいて何も知らないくせに、と拒絶する。わたしは毎晩お兄ちゃんに殴られてるんだからこれくらい言うこときいてよ、という香月に由香里は反発する。香月は犠牲者の立場に身を置くことで支配しようとしているようにも見えるし、野乃香は恋人や姉の押しつける「愛情」に抵抗できないようにも見える。
 この辺はもっと掘り下げてもいいと思うのだが、なんとなく姉妹愛の中に溶けこんでしまう。

 香月の働く店に何の間違いか麻袋が運びこまれてくる。入っているのは見るからにやばそうな男の死体と一本のキノコ。だが男は息を吹き返し、店で働き始める。男は記憶を失っている。キノコはどんどん増え、男はそれを料理して皆に振る舞う。降り続く雨による増水のため小学校に避難している人々への炊き出しにも、そのキノコを使う。

 恋人に頼まれ、今度は恋人の友人・紅月とデートしていた野乃香は、あまりの気持ち悪さに逃げ出す。追いかけてきた紅月を警官と板前がはずみで殺してしまい、死体を処理しに行く。
 だが、紅月は何度殺しても戻ってくる。バラバラにして埋めても死なない。
 板前に命じられて何度も死体処理をしていた警官は、自分も不死になっていることに気づき、強気になって板前を殺す。やはり生き返った板前はもとどおり、不自由だった足も治っている。

 人が死なないのは天国か地獄においてである。
 小学校に避難していた町の人々はキノコのおにぎりを食べて倒れ、息を吹き返すと殺し合いを始めたという。たぶん彼らも死ななくなっているのだろう。

 兄の暴力に腹を立てて殺したのは野乃香。彼女には「ものをグニャグニャに曲げてしまう力」がある。小学生の頃、教室に侵入した包丁男に遭遇したとき発現した力の記憶を、当時傷ついて入院していた由香里に譲り渡した。だから彼女は空っぽだったのだ。そして由香里は超能力少女としてマスコミに取り上げられた。
 兄の死体を焼いて処分したのは香月。
「だって、家族から犯罪者を出すわけにはいかないでしょう」
 何も知らず自分だけ幸せだったことをチャラにするために、由香里は野乃香の能力で殺してもらうことを望む。そして香月の能力で生き返らせてもらって0から新しい人生を始めたいという。
 3人の合意の下で野乃香が由香里を殺す。香月がいつものように生き返らせようとするがどうしても生き返らない。
 死んで生き返ってやり直す、すべてを失って0から始める、なんて虫のいい望みだったのだ。

 だが、本当に後悔する間もなく、救いの神が現れる。
 記憶喪失の男は兄のようでもあり、包丁男のようでもあり、なにかのメッセンジャーのようでもある。彼は、生き返る力がここから失われてしまったことを告げ、けれども最後に由香里を生き返らせる。生き返った由香里は記憶も言葉も失っている。
 すべてを失った由香里は生まれたばかりの赤ん坊のように怯えている。
「大丈夫、ずっと一緒にいるから」と香月は語りかけ、雨が上がった空を見上げる。

 きれいなラストシーンだ。
 香月は、世界に勝つ方法は徹底的に無視することだと言っていた。暴力に満ちた世界を無視して何もないことにする、痛みから目を逸らして世界を無効化するのとは別の関わり方を最後には見つけようとしているのだろう。
 デス電所はとてもモラリストで、正しいことや希望を必ず語らなければならないと思っているのではないだろうか。そういう態度は嫌いではない。だが、希望がはっきり見えるところまで語らなくても、その意思は観客に伝わるのではないかとも思う。

 前にも書いたことがあるが、デス電所のヒロインたちは皆とてもきれいだ。自分の人生を、それがどんなに酷いものであってもきちんと引き受けていく。今回もそうだ。
 作家は、希望や贖罪や救済は女性を通してしか描けないと思っているのだろうか。極論すれば、この作品の中の男たちは、彼女たちに対しては外部にいる加害者としての意味しかもっていない。
 また、この世界では性的な行為は暴力とイコールだ。
 足が治ったことを知った板前は香月との結婚を決意する。好きだから結婚したいが不自由な足を引け目に感じて今まで言えなかった、ということだろうが、彼が性的アプローチに出るようには思えない。好き=結婚=セックスというロマンチック・ラブ・イデオロギーが正しいとはいわないが、あまりの距離の遠さは気になる。
「ずっと一緒にいる」ことは男女の間ではどこに位置するのだろうか。

 自分が加害者であるという自覚は男たちにもある。
 警官と板前は死体処理にいった山中で競うように野乃香への謝りの言葉を叫ぶ。記憶喪失の男は兄のように香月に謝罪する。男たちは謝りたいらしい。
 謝られた女は「うるさい!」と一蹴する。うざい、きもい、と言う。彼らの言葉は彼女たちの内には届かない。
 それは彼らもわかっている。拒絶する女に向かって深々と一礼して去る。彼らは許しを乞うが、許されるつもりはない。
 その姿は潔くも見える。だがわたしなら、最初から許される気もなしに謝られたりしたらなんだかちょっと腹が立つ。
 もっとも香月はもっと寛大かもしれない。
「お兄ちゃんを生き返らせたりしてないよね」という妹の問いを肯定しながら、その態度は曖昧で世界のすべてを(無視するのではなく)許しているようにも見えるのだ。

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