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KOSMOS 松岡永子
 舞台正面、客席と対面の位置に階段状の座席。役者たちといくつかの黒い人形が座っている。舞台中央には黒い人形が一体横たわっており、役者も出番になればそこに立つ。

 見わたすかぎりのコスモス畑の真ん中で少年の死体が発見された、話。それについて探偵を自称する男が自室で助手相手に語る。
 その口吻にはミステリ特有の洒脱さがあり、作・演出の中村が以前演出した北村想作の二十面相などに似ている。これはミステリドラマなのか、と思う。しかし、やがていつもの空の驛舎の思弁的な調子になっていく。

 死体の周りに集まった人々に、ひとりの男が少年との関わりについて尋ねる。
 家庭教師をしていたという男は、学校生活にはなじめなかったようだが怜悧な少年だったという。
 夜中少年を見かけたという自称オートバイ乗りは、気になって戻ったときにはもういなかったという。
 法事で顔を合わせたとき、死についての少年の質問にきちんと答えてやれなかったと悔やむ女は、自分のことを彼をかわいがっていた叔母だという。
 集まっている者の中に質問するだけで何も語らない男がいる。あなたは誰かと尋ねられると探偵だと答える。

 ひとりの死者、ひとつのできごとに複数の証言が交錯する「藪の中」のような話はよくある。ただこの作品は、そのことによって事件を解明するわけでもないし、事件のわからなさを描くわけでもない。

—探偵小説とは、混沌(カオス)に秩序(コスモス)を与えて組織するあるひとつの試みである。—
—我々の生きているこの「世界」は「混沌」である。我々は生きのびるために「混沌」に「秩序」を与え「世界」を受け入れようとする。「探偵小説」が「混沌」に「秩序」を与えるあるひとつの試みだとすれば、その試みには苦痛が伴うであろう。—
(どちらもフライヤーからの引用)

 名探偵は傲岸不遜である。自分だけが宇宙の真実、宇宙の法則を知っているかのようだ。
ミステリが「コスモス(秩序)を作る試み」だとすればそれも当然で、探偵こそコスモス(宇宙)の創造者であり、絶対者なのだ。

 だがこの作品の中では、探偵は絶対者であることを許されていない。
 ホームズがコカインを愛用していたことは有名だが、これは麻薬中毒者の妄想ではない、という。
 宇宙が解釈なのだとすれば、探偵の数だけ宇宙がある。作家の数だけ宇宙はあるし、観客の数だけ宇宙はできる。そのどれかひとつだけが絶対的に正しいわけではない。

 少年をめぐって自分を語る人たちに向かい、「自分勝手なことばかりいいやがって」と毒づく探偵。
 彼が傍観者としてではなく、直面した死の記憶は、病気で死んでいくのをただ見ているしかなかった無力な自分、のようだ。救ってやれなかった、と嘆くのは傲慢だ。人が人に救われることは確かにある。だが人が人を救えることなんてないのだから。

 わたしは死について観念的に話すことは好きだ。だがその中で何か結論めいたものや、救いとなるような考えを得ようとはしないことにしている。自分に都合のいい答えを求めるのが自分でもよくわかるからだ。
 死について語るのは生きている者たちだ。人間は自分を庇いながらしかものを考えられない。

 唐突に、みんなでお弁当のフライドチキンを食べることになる。ひとりひとつづつチキンを手にして、死体を囲んで食べる。キリストの血と肉の話ではないが、食べることは宗教的な行為だと感じた。
 今食べているのはそこに横たわっている死人であり、彼を共有するために、あるいは彼と(彼自身を)共有するために、みんなで一緒に食べているのだという気がした。死者を囲んで食べる、語る。これも弔いのひとつの形なのだろう。
 弔うことは死者ではなく生き残った者の問題だ。死を秩序の内にどう位置づけるかは、まだ生きのびていこうとする者の問題なのだ。

 最後、役者としての挨拶が終わり他の役者が退場したあと、ただひとりむこうの観客席に座っていた役者が一本のコスモスの花を舞台の死者に捧げる。
 沈黙とささやかな花こそが、死の厳粛さに向かい合うものとしてふさわしいのかもしれない。

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