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ことあげは大声でして正解でしょう 松岡永子
 チラシを見て、これはつまんない舞台だろうなあ、と予想して出かけた。
面白かった。ただし、予想に反して、と言えるかどうか。

では、チラシから
——台詞のほとんどを録音するという録音劇の手法を用いながら、ドキュメンタルな表現が混在する型破りな演劇の中に、自己の存在、豊かさなど、根源的問題を突きつける。/ジャンルやカテゴリーを飛び越え独自の表現を模索する、(略)記念すべき処女作品。——
               (わたしとしては「型破り」「根源的問題」「独自の表現」に傍点付けたい)

当日パンフから
——暗黙の了解や表現の自主規制をうち砕き硬直した思考を癒す旅へと出かける。思考や感性の旅人になろう。本当の自由と個性を探そう。——
               (付け加えることは何もない)

ストーリーもチラシから
——「わしの嫁をのぞいてくれないか」それが途方も無い孤独の始まりだった。誰とも話すこと無く、ただ、頭の中でグルグル回る言葉を噛み締めながら、男はじっとのぞきをしている。向かいの部屋に住む、スケベ女と呼ばれる女性を。もちろんスケベ女について気にならない訳じゃない。謎だらけだし、男の彼女にそっくりだし、手招きをして男を呼ぶし...これは何かの罠か?男は考える。しかし、考えれば考えるほど言葉が男を侵略する。——
    (舞台ではこの他に、「この芝居は私の好きな人が、本当に好きな別れた彼女(客席にいるという設定)のために私に語らせるもの」と語る女優が登場する。)

 なぜ現代でなく近代なのだろう、とチラシを見た時思ったが、確かに近代の方がふさわしいかもしれない。
「孤独」だの「豊かさ」だのといった言葉を実に無防備に使う。舞台上でもそう。
 現代詩を語るのにまず朔太郎から始めたり、小説を語るのに私小説的自然主義(もしくは白樺派)から始めるような、ナイーブな感覚。何とも幼い(あえて若いとは言わない)。ほほえましいくらいだ。さすがに(映像)作品に対する「純文学のよう」という批評の言葉を完全に肯定的なものと受けとめる感性はいただけないが。

 やや文学に寄りかかってはいるが端整な脚本。演出もお行儀がいい。綺麗にできあがった舞台。
 物語は二項対立で構成されていてわかりやすい。現実と夢。主観と客観。精神と肉体。などなど。
現実と夢が浸食し合うというならもっと混乱があってもいい。男が、そっくりで区別がつかないと言う「恋人」と「スケベ女」の差も観客には明示されている。こころで愛している「恋人」は白い服を着ているし、からだで愛している「スケベ女」は黒い服を着ている。ラストに立ちあらわれる彼女は白いブラウスに黒いスカート...。そういう記号的表現が効果的だとは思えないのだが。 客席を精神分析家やら観客(!)に見立てて、あなたたちはわたしの痛みに無関心だ、と責め挑発するのも、舞台は虚構であるという前提のもとでは本当に痛くはできないのだ。

 本人たちは斬新なことをやっていると思っているのかもしれないが、全然斬新ではない。
 メタレベルの混在する舞台なんて無数にある。ラスト近く、それまで普通に演じていた主役が「演じるなんて無意味だ」と叫んで大道具を蹴り倒し、舞台を飛び下り客席を横切って劇場を出ていく、というのもあった。
 語りの多重性をいうのなら、日記のような文章を朗読する中、不即不離に舞台が進行し、幾つかのポイントでだけシンクロする、というのを見たことがある。
 人間の考えることなんてそんなに変わるものではない。たいていのことはもう以前に誰かがやっている。新しいことなんてほとんどない。だいたい新しいということにどれほどの価値があるというのか。

 しかし。とにかくわたしは面白かったのだ。それはなぜだろうか。

 わたしも彼らに似たところがあるのだろう。はったりの効いた小難しげな文芸書を「こんなのわたし読んでたのかしら」と思いながらめくってたら栞替わりに挟んでた若い頃の写真が出てきたような気恥ずかしさ。

 けれど面白かった一番の理由は、彼らに「羞じらい」がないからだと思う。

 羞じらいがないというのは、別に露骨なsexシーンが多かったことをいうのではない。露骨だし長すぎるけど別に扇情的でもなかった。台詞に最高のsexという言葉があったが、実際にはあんな単調では退屈だろう。ま、ライヴでそれ以上のものを見せられても困るんだけど。
 ただあまりにも無邪気・無防備なことに唖然とさせられたということだ。

 「羞じらい」というのは、例えば、自分がやっていることを「大きな言葉」で語らない、ということだ。

 世代的なことを言えば、全共闘世代のオジサンたちは「大きな言葉」が大好きだった。
それを見ながら、あれはカッコ悪いと思った者は「大きな言葉」を避けた。その世代がオジサン・オバサンになって、今の若者は、真っ直ぐ正面から言葉を発することすら恥とする者と無邪気・無防備に言葉を発する者に二極分化しているように見える。

 平気な顔で「大きな言葉」を語るのは、羞じらいを捨てられない群れの中での戦略の身振りか、挑発的な居直りか、単にもの知らずなのか。一度見ただけでは判断できない。

 そしてわたしは、彼らがもの知らずであることに期待をかけている。
 彼らが枠だと考えていることは全然枠などではないし、枷だと思っているものは全然枷ではない。本当の枠・自明性は、もっと不可視であり、不定形で不可侵なのだ。枠は枠であることすら気づかせない。越えてみてはじめて、あ、あれは枠だったのだ、とわかるものだ。
 そして、知らないものは気づかずに枠を踏み越えることがある。

 「わたしは演劇が嫌いだ」という決別宣言から始めることはさほど難しいことではない。次の一歩をどこに置くのか。確かめたい。ほんとうに期待している。だからこんな批評くらいでへこまないでほしい。

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