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自己の「セイ」を全うする——男と女。 栂井理依
絵本について書かれたある本によると、多くの女の子が、まだ小さいうちは、自分を「男の子」だと認識しているという。その証拠に、幼児を対象にした絵本では、冒険で活躍するのは、たいてい「ぼく」である。それは、男女差別なのではなく、心理的に自然なことだという説があるらしい。
 そうなると当然、女の子は、自分の性別が「女」だと自覚するのが、男の子より難しい。身体の発達や初潮、男の子が自分に向ける興味の目…その過程に感じる違和感、セックスへの罪悪感や男性への畏怖。女の子は、やはり男の子にはない独特な視点で、世界を見るようになる。
 劇団ugly ducking、南船北馬団、芝居屋坂道ストア、TAKE IT EASY!・・・など、関西で活躍している私と同世代の女性劇作家たちの作品には、やはり、それぞれ特色は違うが、生み出す物語、その表現方法おいて、自分と切っても切り離せない個性として「女」が色濃く出ている。
 そして、三十近くなっても、いまだに自分の性に対する自覚が希薄で、それだけに、時折、それが重くのしかかってくるような気分になる私は、彼女たちの演劇を通して「女」の持つ世界を、教えられてきたような気がしている。

 さて、黒テントの記念すべき第50回公演の『金玉ムスメ』である。本題に入る前に、なぜ、長々と前書きを書いたかというと、この芝居の作・演出を担当した黒テント気鋭の新人・坂口瑞穂氏を、私はてっきり女だと思って、芝居を観始めたからだ。

 時は江戸時代。十二歳になる七は、ある夜、自分の脚の間から、血が出ていることに気付く。おっ母の手伝いをしなかったから、病気になったと思いこんだ七は、逃げ惑い、ある見世物小屋に辿りつく。そして、そこにいたのが『金玉ムスメ』—。

 女性器と男性器をもって生まれてきた金玉ムスメ。姐御肌できっぷはいいが、一座のスターであるプライドの高さと気まぐれには、鼻持ちがならない。
 しかし、身体の変化への畏怖から、自分の存在価値を見失いかけていた七には、たとえそんな姿でも堂々と舞台にたつ金玉ムスメは、気高く美しく、まるで「カミサマ」のように思える。

 金玉ムスメは、母親があやまって踏み潰したコオロギののろいを受けて、十億匹のコオロギにお葬式をあげてやらないと、玉無し女には戻れないという。七は、一生懸命コオロギを集めるが、金玉ムスメには「舞台用の作り話で、そんなことで身体が元に戻るわけがない」と、あっさりあざ笑われてしまう。

 笑い飛ばすもまた結構、安っぽいご同情も大歓迎
 金玉ムスメの股ぐら拝めば、お家はんじょう町はんじょう

スターの座を蛇女に奪われ、親方には妾になれと言われ、行き場をなくした金玉ムスメは、親方への嫁入り用意だと、最後の舞台に立つ。そんな金玉ムスメを応援するために、七は必死に町中を唄って歩くのだ。

ヒゲ女、年老いた5歳の双子・・・見世物小屋で、自らの畸形を人前に曝す人間たち。金玉ムスメと七の関係を見守るヒゲ女は、「五体満足の客たちのほうが不足を感じて、わたしたち出来損ないを拝みに来るんじゃないのかい?見世物料は、本当は『お賽銭』なんだよ」と親方に問いかける—。
男に愛されても、自分の身体にひけめを感じなければならず、見世物の世界で生きていくことを貫く金玉ムスメは、最後の舞台で、自らの金玉を切り落とした。コオロギを何億匹葬ったとしても、自分の身体が変わるわけではない。ひとの背負う運命、それが償いで賄われるわけではないのだ。であれば、自分の「生」を全うするしかない。
 健常者と障害者が危ないバランスでありながらも、共存している社会。バリアフリー、障害者の社会参加が叫ばれる一方、いまだに個々の障害者の人格を尊重せず、ただ隔離し、保護する現代社会の不健全さが露呈される。もちろん、見世物にするのが良いと言っているわけではない。
 ひとの運命とは何か、償うことができない原罪とは何か、私たちはなぜ足りないと感じるのか——それは、生きること、人間存在の根源にあるものと繋がる疑問だ。自分とは、知能的に造形的に異なる個性を持った「命」は、その疑問に何らかの答えを指し示してくれる。その「命」がともに、私たちの社会に存在するならば。

 七は、自分の出血が、女性なら誰でも迎える初潮であったと知る。ほっとするものの、こう叫ぶ。
 「—わたしのカミサマが死んじゃった!」
 この一言は、意味深だ。金玉ムスメが、本当に死んでしまったとも、金玉を切り落とし、普通の女性になってしまったとも取れる。また、出血の真実を知った七が、身体の変化を受け入れ、女性として新しい世界へ足を踏み出した、のだとも。七の中の「男の子」の死、「カミサマ」の消滅—。

 芝居を観終わって、女性作家にしては、性に対して冷静で、全体を俯瞰している作品だなぁと思っていたら、カーテンコールで出てきた坂口瑞穂氏は、「男」だった。そして、ああ、なるほど、と、どことなく納得したのだった。

 おそらく女性なら、物語を進行するにあたって、初潮を迎えた七の戸惑い、男性器を持った女の哀しみに、もっと焦点を当てずにはいられないだろう。血のついたひやりとした下着、身体の中でどろりと落ちる血の感覚。胸の膨らむ痛み。男性器への畏怖。…それらを経てきている女性作家は、一人前の女として生きられない金玉ムスメの身の引きちぎられるような純粋さ、身体の変化への畏怖から、そんな金玉ムスメを激しく敬慕する七の複雑な心、そして彼女の「死」を通過儀礼とし、女へと変貌していくだろうことを予想される七のしたたかさを掘り下げることによって、運命やら償いやらといった私たち人間の抱える業を、観るものに、感情的に突きつけてくるだろう。
女が世界を肌で感じているように、女性作家は、演劇を肌で感じさせようとしているのかもしれない。

対して、「男」である坂口氏の作・演出は、黒テントらしさを意識したのかもしれないが、観る者の感情を引き出し、カタルシスを感じさせるのではなく、登場人物たちの「セイ」を敢えて淡々と描きながら、私たちの暮らす社会を映し出していった。京都での上演は、劇場内での公演だったが、役者が頻繁に客席を通ったり、ちんどん屋が物語の随所に登場したり、テント用の芝居ならではの楽しさや迫力が盛り込まれ、楽しかった。

 わたしの勘違いから始まった芝居体験。観終わった後も、いろいろ想像させられた。またひとつ「女」の持つ世界を教わった、と思った。

キーワード
■障害者 ■差別 ■性別
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