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死に向かって疾走する生 西尾雅
ロミオとジュリエットがもし携帯電話を持っていたなら、あの悲劇は成り立たないと想像する。相手が薬で眠っているのを死んでいると早合点し、絶望のあまり自殺してしまうなどというすれ違いは避けられただろうからだ。けれど、携帯電話が待ち合わせのすれ違いをなくそうとも、心のすれ違いは減らせやしない。携帯電話の普及は不倫や援助交際をサポートするが、そそのかしているわけではない。ネットもまた誹謗中傷の書き込みや不法なサイトが問題にされる。ネットの手軽さと瞬時の伝達が被害を拡大させているというわけだ。けれど、ネットもただの道具、人の悪意を写し取るに過ぎない。むろん、ネットには善意や便利もあふれている。その2重性こそ人そのものなのだ。

本作はネットで救われたゆえに、ネットを使って殺人に走らざるを得なかった犯人の悲劇である。3つの物語がカットバックで同時進行し、ときに時間を遡り、違うパターンの反復を繰り返す。犯行予告される残虐な幼児連続殺人事件を追う2人の刑事。いっぽう、不審な自殺も連続して起こる。交錯する2つの事件に別のシーンが挟まれる。そろって身体を売る売春姉弟とホテルの客、そして自殺癖のあるマンガ家志望男と女友達。鈍い上司を面と向かって罵倒する刑事のやり取りは、ボケツッコミのスリリングな漫才を思わす。親がなくとも売春で稼ぎ、生き抜く姉弟はニッポンの繁栄と退廃を嘲う。自分でアクションを起こすのは中途半端な自殺未遂のみ。マンガ家志望男は、心配して原作を提供する女友達にも不満をぶつけ、世間を斜め見る。

いずれも虚飾で薄っぺらな現代の典型症状に罹る自分中心の人たち。マシンガンギャグと鮮やかな転換、総踊りもあるオリジナル音楽を随所に挿入して、近未来の日本をシュールに戯画誇張する。バラバラのジグソーパズルが収束し、犯人と動機が絞られる。焦点が合った瞬間、ネガポジが反転するように、真逆の現実が明かされ、過去現在が逆転する。デス電不変にして究極のテーマ「生まれ落ちた時、既に死に向かっている」。突きつけられた真理が背筋を凍らす。

犯人は幼くして目前で両親を殺害され、隔離されて育つ。ネットを教師や友人としネットで社会を知る。ネットでの励ましに感謝し、ネットに恩返しする。その社会への還元とは、ネット上で誹謗中傷された人間を削除すること。不特定の人間が書き込む、嫌われる人物を社会から抹消するのだ。つまり、見えない依頼者の代行殺人を無償で請負う。しかも、犯人は直接手を下さず、対象を心理的に追いつめ自殺させる。孤独な幼児期を過ごし、絶望を知る犯人には人の弱さをつき、死を安楽と錯覚させることが容易なのだ。別件の幼児連続殺人犯もつきとめられる。幼児のまま殺される方が、大人になって生き続けるより幸せだと犯人はうそぶく。

生きること、死ぬこと。幸せ、不幸せ。その意味が反転する。人間が元々持つ2重性をネットは極端に拡大する。殺人すら簡単に依頼できる安易さと不幸な幼児に手をさしのべるチャリティが両立するように。幼児のまま死ぬ方が幸せと言い張る殺人鬼は生きることが苦痛で、本人が死を最も望んでいるのだろう。それは池田小学校を襲い、死刑が確定した宅間被告に通じる。幼児虐殺は異常者の犯罪と思いがちだが、普通の人間が抹消を期待してネットに誹謗中傷を書き込む。そこに大きな違いはない。ネットや異常な殺人事件は、人の持つ2重性を白日に晒すに過ぎない。

相反する価値観に人はなぜ引き裂かれるのか。分裂は、既に生きているその内にある。生の果てに必ず待ち受ける死。生は死を既に孕む。死は生が用意した最終プログラム。デス電所はシモネタを多用し、屈折したギャグに客席はときに引くが、セックスの快楽は感じられず、逆に苦痛や自虐がにじむ。それはまるで、生殖の結果としての己が存在を恥じるかのようだ。「死ね死ね死んでまえ」ダンサブルに全員がコーラスする劇中歌は、それでも生き続けるしかない私たちに反語としてのエールを送る。

犯人は主宰するホームページを「天国の庭」、自分を「青空」と呼ぶ。確かに、生きているこの世こそが、濁りきった煉獄なのかもしれない。売春姉弟の上下関係はラストで反転し、実は「兄妹」とわかる。彼らと共にいたのは、売春容疑で現行犯逮捕しようとして逆に殺された刑事の幽霊だとわかる。生死の実体や年齢の上下がここでも反転する。近親相姦で兄の子を妊娠し、それを怨む妹は兄を殺す。殺人の連鎖がまた始まる。幼い頃、両親を殺された犯人がネットを使って死を布教したように。

犯人は、対象を自殺に追いつめる際、ただ説得するだけ。批難はいっさいせず、ただ存在を認めすべてを受け入れる。幼子を抱く母の慈悲のように。やすらぎを得て、人は躊躇なく苦痛に満ちたこの世界に別れを告げる。子宮に回帰するように満足し死に向かう。生れ落ちた時、既に死は始まっている。死はゴールではなく、ただ出発点へ戻るに過ぎないのかもしれない。

東京公演:04年1月16〜18日、王子小劇場

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同公演評
祭りは始まるのか … 松岡永子

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