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孤独を背負うロミオとジュリエット 西尾雅
かつて新感線が「仮名絵本西遊記」巻之1と2を連続公演した際、シャレで商業演劇の日と称しお弁当付きのセット券を販売したっけ。91年9月、万博ホールでの公演で、台風とぶつかって大変だった記憶がある。今や東京は新橋演舞場、大阪は松竹座でそれぞれ1ケ月公演を打つまでに動員を伸ばし、押しも押されもせぬ商業演劇の仲間入りを果たす。実際、満席の松竹座の観客の平均年齢の高いことに目を見張る。むろん、主演の染五郎や元宝塚の天海の人気もあろうが、ひと昔前なら新歌舞伎座や梅田コマ劇場の座長芝居を観ている層を、しっかり新感線ファンに取り込んでいる、その事実に驚く。吉本新喜劇ばりのお笑いや高田あるいは橋本のテレビ出演によるとっつきやすさもあろうが、かつてはけたたましい音楽とテンポの早さで小劇場でも異端視された新感線がここまで認知されるとはうれしさを通り越して奇跡とすら思う。

衣装、装置、照明、音響、チラシパンフ等すべてに金をかけられるようになり、華のあるキャストと組み一流スタッフともコラボして、作品をブラッシュアップする新感線だが、基本はまったく変わりない。演出いのうえにとっておもしろいものというスタンスは不変だ。初日と千秋楽でまったく作品が異なっていることに定評があり、小道具を作り変えてまでのシーンまるごとのカットや挿入がよくある。細かい手直しやギャグの変化は日常茶飯事。それは、ほぼ毎公演を1階最後部の客席で観続けている演出の手直しのおかげ、いのうえ自身が新感線の最初の観客であり最大の熱烈なファンという姿勢を貫いているから。信じるものへのこだわりが、劇団とファンをここまで育て上げたといえる。会場で一番大きな笑い声を立てているのが、時々演出本人だったりするのがほほえましい。

が、ギャグのくすぐりと骨太な物語のバランスが新感線の要。どちらが欠けても新感線ではない、次々登場するおかしなキャラ、ち密に張られた伏線、やがて解き明かされる壮大な謎、たたみかける殺陣とアクション、お笑いネタの洪水、その緩急自在の切替が真骨頂だろう。初演は87年、00年に染五郎主演で再演、今回は再々演となるが、3年前に比べても音響と照明の転換スピードが早まり、シンクロも完璧。音楽に太鼓の和のリズムが多用され、付け打ちを音効で聞かせて役者の動きとブレがない。むろん、殺陣シーンで刃がブツかる音効タイミングに抜かりはなく、いかに一瞬の間を重要視しているかうかがえる。観客に考える余裕を与えない(当然、眠くなる隙などあろうはずもない)間の詰め方、埋め尽くすテクが集積されている。

そもそも新感線の1幕は、キャラ登場と設定の紹介に終始するのが伝統、つまり長いプロローグもしくは前振りに過ぎない。その謎解きが2幕の骨子となるが、本作は2幕冒頭で早々と阿修羅の謎が明かされる。江戸末期、鬼が跳梁する末世に鬼退治を生業とする鬼御門(おにみかど)を辞職した出雲(染五郎)と、その鬼御門に追われる謎の女つばき(天海)が遭遇する。5年前いたいけな少女を斬って仕事にイヤ気が差し行方をくらました出雲と、5年以上前の記憶がないつばき。鬼の王・阿修羅の復活を期して暗躍する美惨(夏木)とその阿修羅の力を手に入れるためには鬼御門副隊長ながらトップの十三代目安倍晴明(近藤)をも切り捨てる邪空(伊原)が2人にカラむ。

美惨が予言した阿修羅の復活とは、少女から女そして鬼へと変身する三位一体の究極の姿を指す。復活前の阿修羅はみずからの正体を知らないために、やがて阿修羅に転生するつばきは失われた記憶、つまりアイデンティを求めて苦しむ。転生の引き金を引くには、それぞれ恐怖と恋という強い情動が必要で、出雲に切りつけられた少女は女に転生し、つばきと名乗るその女が出雲と再会、恋心をたぎらせて阿修羅に変わる。ここにはかつて小劇場のブームでもあった自分探しや逃れられない運命、みずから内に封印されている自分の正体といった古今東西の物語のモチーフが取り入れられている。

女が実は鬼だというのも言い古されたテーマではある。仏教では阿修羅は、そもそもインドの異教神八部衆の中の戦闘神であり、安産の神として知られる訶利帝母も元は他人の子を食らう鬼子母神だった。怒る女性を夜叉や般若と呼ぶように自身で制御できない憤怒に身をこがす姿は昔から鬼をほうふつさせたのだろう。それは互いに惹かれながらも、絶対に理解し合えない男女の業を象徴する。相手を鬼と呼び、鬼殺しの鬼と自嘲する絶望が両者を隔てる。鬼と人、男と女の溝は深く、亀裂が埋められることはない。それを飛び越す情動こそが恋であり、人を鬼にも変える尽きせぬエネルギーの源なのだ。

少女を女に転生させる際、つばきの背中と出雲の右手に血で紋が刻印される。その運命の契りが、さらなる転生のキッカケとなる出会いを導く。互いに魅せられることが阿修羅転生の絶対条件。鬼の王たる阿修羅の強さに対抗し転生をなしえるのは、邪空すら一太刀で切り捨てる強さを持つ出雲しかない。ならば、この2人は、鬼と人を代表して対立することが最初から決定づけられている。戦う運命を背負った者同士が、それをもたらした恋に苦しむ。つまり、これは対立関係に翻弄される悲恋、ロミオとジュリエットの悲劇に他ならない。

記憶をなくし自分が何者であるか捜し求めるつばきは、自分を特徴づける唯一の印である背中の紋を鏡に映し、見つめる。それが永劫の孤独を意味する阿修羅の紋とも知らず。いっぽう出雲は、師晴明の企らみで蠱毒(こどく)となって対決することを余儀なくされる。蠱毒とは、鬼御門の中で競わせ、仲間を倒し、その力をも得た最終勝利者が、敵である鬼の王と対決する仕掛のこと。つまり、彼らは鬼と人それぞれを代表して戦う運命にあって、ひとしく孤独を背負う。倒すべき相手こそ仲間以上に近しい存在だという矛盾に突き当たる。

既に対立を孕むめぐり会い。それは邪空と出雲も同じ。少年期に飢饉の陸奥で晴明に拾われ、鬼御門として育てられた2人はいわば同期そして終生のライバル。異常繁殖した蝗が大地を食べ尽くし未曾有の飢饉となった時、邪空はその蝗を逆に食べることで命を繋ぐ(今でも、東北地方には蝗の佃煮なる伝統料理が残る)。それは、幼い邪空に決定的な信念を植え付ける。生きるとは、まさに食うか食われるかなのだと。

その邪空は出雲にずっと想いを抱き、その片思いに出雲は微塵も気づかない。次に問題は、剣の実力では出雲が圧倒的に強いこと。出雲にアピールするには、邪空は強くならねばならない。阿修羅の力を得たい邪空の真意はここにある。出雲は阿修羅に恋するが、邪空は彼女をけっして恋の相手などとは見ず、ただその力のみを欲す。邪空にとっては出雲を上回ること、それがライバル出雲への愛の証なのだ。つまり剣で出雲を倒すこと、あるいは刺し違えて2人とも死ぬこと。自分の手で殺すあるいは無理心中するのが邪空にとって究極の愛、本望なのだ。

恋が女を鬼に変える。阿修羅の血をすすり、その力を得る邪空は、鬼に変わるまいと、みずから股間に刃を突き立てる。男であることを捨ててまで、鬼の力を欲する彼は、もはや鬼でも人でもない唯一の存在を宣言する。報われぬ片思いをどれほど純粋に貫けるか、おのれを試す。けれど、邪空や美惨の悲劇は、しょせん出雲と阿修羅2人の宿業の添え物でしかない。邪空の一途さが物語を露払い、彼のあわれさを増す。

物語を彩るのは血の赤。椿の花は赤く、男女の縁もまた赤い糸で結ばれる。血は力であり、生命の証でもある。椿の花の落下が打ち首を連想させ、武士に嫌われたことは知られる。つばき=阿修羅もまた首にこだわり「落としますか、この首を」と出雲を挑発する。敗れた阿修羅は断末魔に出雲の首に噛み付く、まるで吸血鬼のように。彼女は出雲の血を得て、死ぬことで新たな転生を図る。

血と並ぶモチーフが鏡。晴明に伝わる霊力を秘めた打鬼の鏡は鬼を払う。そこに映されたおのが姿の醜さに鬼は退散するとか。けれど、自分を恥じるとは鬼の何と殊勝なことか。鬼も人も殺戮を繰り返すことでは同じ、鏡を見ても所業を恥じない人こそが鬼なのではないか。鬼こそ人が自分を振り返る鏡に他ならない。邪空も鏡の反射する光の眩しさに惑わされて敗れる。鏡はつまるところ使いよう。鬼でありながら阿修羅に打鬼の鏡は効かない。孤独を見つめるつばきには、自分を映す鏡だけが近しい存在だったのだから。鏡は彼女の分身、ゆえに鏡から新たな阿修羅がまた再生することがラストで暗示される。

憎悪する関係をあぶり出し、あるいは孤独を映し、あるいはターゲットを幻惑して鏡は虚実さまざまを照射する。鏡こそが実相を映すもうひとつの世界。鬼こそが人の写し絵、物語こそが現実の投影だといわんばかりに。幽霊話に心奪われるのは、それが心の闇を白日の元に引きずり出すから。本作は、鬼と人との種族すべての存亡をかけた死闘を描いたに過ぎない。が、男女の悲恋もしくは報われぬ三角関係の壮大な叙事詩として屹立するのは、愛こそが究極の戦いだから。だからこそ、生命を賭けた戦いの終焉に散る桜の花は、勝ち負けを越えて限りなく美しい。

本筋の大きな流れにはまったく影響ないが、コーナーを彩る高田、橋本が劇団員の瞬発力を発揮する。晴明の娘・天然ボケのわがままお転婆お姫様と、刀おタクのハイテンション刀鍛冶で場をさらう。公演後半には、登場を待ち焦がれるファンの拍手で出の場面が異様に盛り上がるまでに。初演、再演キャストをなぞらずに独自のキャラを創りあげ、手元に引き寄せた2人の功績は大きい。天海は、1幕のつばきで渡り巫女に保護される弱さがないものの、転生した後はスタイルの良さと元男役トップのりりしさが相まって強く美しい阿修羅を造形する。邪空の伊原は、天海に対抗する高い身長で立ち姿に色気とすがすがしさがあり、公演後半から貫禄も増す。夏木も、持味のエキセントリックさで他キャストから浮き上がっていたが、カンパニーに溶け込むにつれて美惨の悲劇がにじむ。惜しむらくは再演の加納幸和から代わった小市。小市の人の良さが透け、業が深くずるい南北がただの好々爺に見えてしまう。けれど、何より印象的だったのは、もはや出雲を完全に手中にした染五郎の自信と安定ぶり。男ぶりの良さと吉本新喜劇顔負けの三枚目ぶりが小憎らしいほど。歌舞伎役者が役を身に沁みこませる、その真髄に触れる思いがする。

それにしても阿修羅と拮抗する出雲の正体は何なのか。晴明は飢饉でみなし子となった邪空と出雲を拾い、鬼殺しに育てる。邪空が安倍姓なのは鬼御門副隊長として養子縁組したせいだろう。が、出雲は病葉(わくらば)姓を名乗る。「わくらば」は「くわばら」の反転と考える。そう、鏡の映し文字のように。「病葉」は「生気を失った木の葉」「桑原」は「雷は桑畑に落ちないというまじないから唱える言葉」(新明解国語辞典)とある。病葉は飢饉で農作物の枯れた姿を連想させ、出雲の生い立ちをしのばせる。「くわばら、くわばら」は雷よけの符牒であり、雷は鬼が落とすと信じられていたことから、鬼殺しの宿命をそもそも背負うとわかる。むろん古代出雲文化の継承者でもあろう。

阿修羅を倒すのは「縁切りの太刀」しかない。祓刀斎(橋本)が魂を込めた太刀はしょせん阿修羅の敵ではなく、だから祓刀斎らはワキ役に過ぎないのだが、結局阿修羅を倒すのは彼女自身が持っていたカンザシ、出雲の手に渡った小さな髪飾り。阿修羅自身が自分を滅ぼしたかったことがここでも証明される。美惨が「救いとは滅び」と達観したように人も鬼もそこに変わりはない。突き立てるカンザシが女性特有の小道具でありながら男性器を象徴して阿修羅を絶頂に導くシーンに男と女、エロスとタナトスが究極に混交する。

縁切りで生を断つのではない。絶頂の死の後に、新たな再生は約束されているのだから。断つのは、自分たちが背負う鬼や人のしがらみ。ロミジュリならば両家のプライドといったところか。周囲がお膳立てした「運命」を断ち切り、おのが住む世界を滅ぼしてでも貫く意思。だからこそ、個としての2人の戦いを象徴するエネルギーを出雲は「秘め事」と宣言したのに違いない。

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■再演 ■商業演劇
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