log osaka web magazine index
WHAT'S CCC
PROFILE
HOW TO
INFORMATION
公演タイトル
パフォーマー
会場
スタッフ・キャスト情報
キーワード検索

条件追加
and or
全文検索
公演日



検索条件をリセット
これはここに書くことではないかもしれないが 松岡永子
 久しぶりに人形浄瑠璃を見た。変則的な公演だった。
 大阪市立大学公開講座「上方文化講座」開設のプレイベント「文楽—大阪から世界への発信」。一般に公開されたもの。講演や対談の後、海外公演でもよく上演される「曽根崎心中」の公演。

 最初に見る(そしてもしかしたら最後の)人形浄瑠璃が「天神の森の段」なのは、わたしはちょっとイヤだ。理由は単純。あれは男が女を殺す話だからだ。好きだ好きだと言いながら殺す話だからだ。「曽根崎心中」は詞章も人形の所作もとても美しい。だから、イヤ。
 だいたい、人形浄瑠璃では死の場面が最も美しい気もする。恋人に限らず親子などでも(「伽羅先代萩」子どもの死の場面の政岡、とか)。
 それは独特の日本的な美意識なのかもしれない。でも、それだけが人形浄瑠璃だと思われるとなあ、ということだ。
 いろいろな作品を見る中でこういうのもある、ということならそれでいい。だが、人形浄瑠璃といえば美しい死、というイメージはちょっと困る。
だから、体験講座などでの演目で心中場面は好ましくないと思っていた。
 まあ、最初に見るオペラは「リゴレット」より「魔笛」の方がいいな、という感想と同レベルの感情だ。

 公演自体は、やはりとても美しかった。文楽劇場の専用舞台とは勝手が違ったのではないかと思うが、そんなぎこちなさは少しも感じさせなかった。

 そして照明が入ったとき。これまで見たことのない場面があった。
 人形がカーテンコールを受けている。
 お初は座って、徳兵衛は立って客席にむかってお辞儀をしている。カーテンコールを受けているのはあくまで人形であって遣い手ではない。手を振りながら退場するまで、人形は完璧に役者を演じていた。
たぶんこれが海外公演のノリなのだろう。海外公演の時はこんなふうに「人形を立てて」舞台を作ってるんだろうなあ、と思った。
 人形が「登場人物」ではなく「役者」を演じる。では、心中場面は、人形が演じる役者が演じたお話、ということになるのだろうか。
 二重に括弧でくくられたお話は二重にフィクション化されていて、わたしの感じるような危惧は見当違いなのかも知れない。
しかし、なんだか不思議な気がする。

 今、わたしたちは古典芸能をどんなまなざしで見ているのだろう。


キーワード
■古典芸能
DATA

TOP > CULTURE CRITIC CLIP > これはここに書くことではないかもしれないが

Copyright (c) log All Rights Reserved.