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パフォーマー
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会場
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公演日
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ゲームクリアのあとに |
松岡永子 |
アグリーダックリング初のダブルキャスト公演。わたしがみたのはAプログラム。 女子高生の菫は放課後すぐ学校を飛び出す。そこにいても何もなくて損する気がするから。 でも今日はバイトもない。行くあてもない。駅で座り込んで通行人をながめる。 ひとりでいたくもないし、他人とつきあいたくもない。 そんな菫に男が声を掛ける。男に誘われるままマンションの一室に入った菫は「これって、もしかして拉致監禁?」などと楽しそうに言い、しれっとしている。たとえ何が起こっても「怖くもないし興味もない」。これが菫の口癖。 菫にとって人生は死ぬまでのひまつぶし。ゲームそのもの。バーチャル世界に本物の喜怒哀楽はない。どんな状況も、自分自身の死すらも本当に心を動かすことはない。そんなふうをしているし、自分でもそう思い込んでいる。見たくないものは見ない。 男は菫にコントローラーをわたし、開発中のゲームのモニターになってほしいと言う。 マッシロ、というキャラクターを作り出すゲーム。 ゲームの世界にいるのはアカネとモエとアオイ。 情緒的なことには一切興味がない、人は操作の対象だと言うアオイ。 面と向かって話すことは苦手で、文字の美しさに陶酔するモエ。 刺激に過敏ですぐ鼓動がはやくなるこわれもののようなアカネ。 パソコン通信上で友達だった彼らが現実の中で出会う。直接ふれあうことになる。 刺激を避けて生きてきたアカネのために「ドキドキ」を教えてやろうというアオイ。 「ほら、これが痛いのドキドキ。これが怖いのドキドキ…」モエはそれを書きとめる役目。つぎつぎ現れる新しいドキドキに三人は夢中になる。遊びはエスカレートしていく。 ドキドキが飽和地点に達したら、光の三原則(赤(アカネ)+緑(モエ)+青(アオイ)=白)に則ってマッシロというキャラクターが現れるはず。なのにいつもまっくろになってしまうんだ、とつぶやく男。 残酷な遊びはアオイにとって実験にすぎないのだと知ったモエは反撥し、アカネに何ごとかを告げる。それがまっくろになってしまう原因。 何を告げたのか。アオイは知りたい。男はどうしても知りたい。このゲームは男の過去なのだ。 知るために男はこのゲームを作った。開発中、モニターがつぎつぎと失神し、会社はゲームの開発を中止にした。会社を辞めた男はひとりでゲーム製作をつづけている。 モエはアカネに謝りに行く。でもうまく言えない。 アカネは別のドキドキが欲しい。アカネはモエに尋ねる。 「わたしのこと、ちょっとでも、好き?」 「好きよ」 これは幸せなドキドキ。たぶん、一番大きい、一番欲しかったドキドキ。 アカネはくり返し尋ねる。 「わたしのこと好き?」「好きよ」「わたしのこと好き?」「好きよ」… 幸せなドキドキの飽和の中で。アカネは息絶える。 やっぱり画面はまっくろになってしまった。 菫はその場面をくり返す。 なんて刺激的。失神するほど… このゲームは他人にとっては興奮剤でしかないのだ、と男は菫の手からコントローラーを取り上げる。 やがて意識を取り戻した菫は部屋を立ち去る。今日のことで彼女は何か変わっただろうか。 現実の、菫と男のシーンで「…と言いながら座る」といった自分の行動を台詞にするところがある。 これは昔のRPGにあった言い回しではないか(今のゲームはどうなのか、よく知らない)。 現実のはずの彼らがゲームの中にいるように行動しているということだろうか。 リアルとは何か。現実とは何だろうか。 現実がバーチャル世界のようで、手ごたえのある恐怖も幸せも、むしろゲームの中にある。ゲームの中にしかないような気がしている。それを現実の方に取り戻すために、本物のドキドキを感じるために、傷つくことも傷つけることも受け入れる。機械を通さず他人と直接かかわることを選ぶ。 この話が書かれたのは何年も前だと思うが、今の高校生もそう思っているのだろうか。そう思っていると、思いたい。
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