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なぜ作品を作るのか?プロセスや裏話を根掘り葉掘りインタビュー。
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+ 雨森信

vol.2 藤浩志 Part 7

鹿児島ではどんな活動を?
鹿児島で最初にしたことは、バブルの崩壊と共に生産が中止されていった大島紬の本の制作です。鹿児島県内のほとんどの市町村に大島紬の手織り工場があったんですけど、それが次々と閉鎖されていく状況にありました。大手の大島紬メーカーが規模を縮小しはじめ、大型の工場は閉鎖され、ディスカウントスーパーになったり、優秀な技能を持つ職人がそのスーパーの店員になったりしている現状を目の当たりにしてとても悲しかった。僕の両親が奄美大島出身ということもあって親戚縁者の多くが、大島紬の業界に関わっていました。父親も大島紬の会社に勤めていたので、このような状況がすごく気になったんです。大島紬はもともと奄美大島の伝統工芸だったのですが、戦後、特に高度経済成長以降、鹿児島県の地場産業として発達してしまって、商品的な価値は認められていても工芸作品としての価値は認められていない。技術的にはすごく高度な手法で制作している技術者も工芸作品としての意識で制作しているわけではないんです。あくまでも商品!僕から見ると高度経済成長という時代と経済状態が作った変な高級織物、一反が何百万円もするようなある種のフリークが作られた状況に興味がありました。在庫はいっぱい残っていても、それが商品としてどんどん安価になって流通するから作品としては何も残らない。そこで作品集として本を作って残そうと考えたんです。親戚の経営している大島紬のメーカーにプレゼンテーションして呼びかけて、予算作ってもらって、その会社の社員と5000反ぐらいの作品からセレクトし、500反ぐらいを撮影してもらい、半年くらいかけて編集して作品集として仕上げました。本当は出版社を通して出版したかったんだけど、自主制作で、結局会社のカタログみたいなものになってしまったんだけどね。

文化館構想
一方で、全部閉鎖されていく大島紬の織り機がいっぱいあるような木造の工場を倉庫と制作スタジオとして借りていました。次々と取り壊されていくのでそのたびに移動を繰り返してね。 東京でヤセ犬を作っていた延長で、取り壊される大島紬の工場からも1匹ずつヤセ犬を作り始めたんです。工場を転々としてヤセ犬を作りながら考えていたのが、鹿児島県内101ケ所につくる文化館構想。工場の跡地利用ということも視野にあったんだけど、子どもが遊べる児童館的なものと老人福祉施設と地域情報センターみたいなものを合体させたような小型の複合施設。
バブルの名残で田舎の市町村に数千人規模の大型ホールとかが建てられていた時期でもあったので、そうではなくて小さい100〜200坪くらいの敷地レベルの、公民館とはまた違うものが必要だろうと。93年はまだインターネットはつながってなかったけど、子ども達がコンピューターを使って情報を引き出せるような、図書館と図書館に変わる情報センター。そこで遊べて、老人たちも集える空間。小さい規模でね。それを鹿児島県内のすべての市町村に建てていこうという計画を立てたんです。個人的にはそこにヤセ犬を一匹ずつ忍び込ませてゆこうかなと。僕にとってはそれが犬小屋なんだけどね(笑)。それで、その建物は101人のおもしろい建築家に建ててもらうといいだろうなあと。というのは、都市部と距離のある地域の人はデザインの力をあまり信じていない人が多い。特に建築とか空間のデザインの力というのを知らないので、そのデモンストレーションとしてもいいだろうと。東京とかの大規模都市では、いい建築が建っても埋もれてしまうんだけど、田舎でいい建築物が建つと目立つし、機能するんです。そういうことをまとめて企画書を作って101ケ所の児童館構想にアプローチしようと鹿児島の美術館での展覧会で発表したりして、自分でもけっこういい作品だなあと思ってたんです。

そういえば、鹿児島では合唱団にもはいっていましたよね?
そうそう、リサーチのためにいろんなホールを廻ろうと地元の鹿児島混声合唱団に入りましたね。
そうして鹿児島県の企画の人達といっしょに仕事をしていこうとしていた時、鹿児島市内を集中豪雨が襲い、水害に遭遇してしまうんです。

93年の8.6水害
鹿児島に引越したその夏です。鹿児島が水害にあって、家のまわりが全部水浸しになって、なかなか使えそうな五連の石橋があったんだけど、それも壊れて流されてしまってね。僕も水害の中、泳いで家に帰ったんだけど。その直後に鹿児島県が河川改修事業をやり始めようとするわけ。激甚災害のための特別事業、激特というのがあって、国から予算がおりることになって、250億だったかな?それを河川改修事業にあててしまってね。
水害が起こった理由を石橋のせいにして。鹿児島市内に残っていた「五大石橋」と呼ばれる4連から5連の石橋を全部取り壊して、川幅を広くして橋を全部付け替えて、水害を防ごうと。でも市民側は川が氾濫したのは貯水池がなかったからだと上流の水を流さないように水をためておく貯水池を造ることにお金を使うべきだと、完全に対立してね。鹿児島県としては河川改修費用として予算をとってしまったのでそれで進めるしかなくて。僕らは文化財としての石橋を河川拡幅工事のために取り壊されることの意味が分からなかった。「水害がおきたのは、石橋のせいではなくて貯水池がなかったからだ。」と反対して。93年から96年の間、石橋が全部取り壊されるまで何年間も、鹿児島県と市民との対立が続くんです。こんなことがあって、県と敵みたいになってしまって、水害の前に考えていた児童館構想の話なんてまったく出来なくなってしまった。そんなばかな話はなくてさ。本来、住民のための行政だと思っていたのに、そうじゃないっていう現実にぶちあたってね。 鹿児島の地元の雑誌で文章を書いたりE-spaceがミーティングの会場になったり、展覧会でもいろいろ石橋の問題について発表したり。他にも街にはり紙をするという表現活動や、石橋の横に屋台を作って、朝までシンポジウムをやったり、昔つくった龍の染織作品をクレーンでテント状に吊り上げて、ドラゴン屋台を作って、そこで焼酎2種類を用意して、一つはカエルが蓮の葉に水をためて持っている『故郷の誉』、もう一つは、石橋を壊そうとしているラベルの『千年の恥』、「どっちを飲みますか?」ってね。150円で焼酎一杯の屋台。

ドラゴン屋台 1981年制作(写真は1994年鹿児島西田橋)
鹿児島で石橋の解体に反対する運動を行っていた頃

その頃は、水害や地震災害などが起こり都市が崩壊するイメージ、人為的な政治力によって石橋などの文化財が取り壊されていく現実、そして僕のお米のカエルにもウジムシがわいてきて、どんどん腐って行く。 なんだか僕の周辺のあらゆるものが崩壊していく感じ、世紀末的なイメージ、崩壊が始まっているって感じで辛かったね。

 

そんな時に東京で個展があって、『ふりカエルBAR』っていうのをやりました。バーカウンターを作って、カウンターはガラスケースになっていて、中にはウジムシやらカビがわいてくるカエルたちを入れて、来た人も虫眼鏡で観察出来るようにして。一番いい状態だったと思うよ(笑)。カビの色がとてもきれいなんです。赤やら黄色やら、ピンクの色のかびがプチプチと樹脂からはみ出てきて。一つ一つ個性があってそれぞれ違う。中にはウジムシがわいてちょうど出てきているのもあれば、味噌みたいなものがはみ出したり、醤油のようなおしるが垂れているのもあって。いろんなバリエーションがあってね。

1994年 ギャラリーなつかでの「ふりカエルBAR 」
バーカウンターに腐ったおにぎりのカエルや蛆虫が涌き出たカエルを設置し、そこで皆さんにくつろいでもらう企画
2週間の限定営業でしたが、大勢のお客さんがお酒やコーヒーを楽しんでもらいました。これ以降、表現としてのCafeとかBARが増えたような気がします。

臭いとか大丈夫だったんですか?
ガラスケースに閉じ込めているから、臭いもしないし、美しいんですよ。けっこうカエルが好きな人が集まって、ずっと眺めてたり。

そのバーにはずっと藤さんが?
ずっといましたね。僕からすると、鹿児島でお店をやっていたので、お店のノウハウも身についていたので、自然に「いらっしゃいませ」って出迎えて。石橋のことなど、みんなといろんな話がしたかったんだろうね。銀座4丁目でレストランが入っているような複合ビルの8Fだったので場所も良かったこともあって、普通のカフェだと思って入って来る客が多かったですね。

普段そこはギャラリーなんですよね?
そう、普段ギャラリーなんだけど、ほとんどのお客さんがお店だと思ってたと思いますよ。2週間で2000人くらい入ったかな。普段の10倍くらい。コーヒー200円とかビール300円とか安かったからね。おもしろかったのは、入ってくるお客さんの視線の違い。いつものギャラリーのお客さん、展覧会を見に来る人は作品を探そうとするし、お店だと思って入ってくる人は、まず客席とメニューを探すのね。視線のやり場が違うのでどの種類の客かすぐ分かるんです。そうやって見ていると、ほとんどの人はお店として入って来てましたね。どちらのパターンでも「いらっしゃいませ」ってメニューを渡していました。注文することは強制しなかったけどね。 短い期間だったのですが常連客も何人も出来ました。近くのデパートに勤めているカエル好きの女性は、夕方になると毎日現れて必ず窓辺に座ってカエルを眺めてコーヒーを飲んで、ため息をついて帰っていく。最後の日に、「毎日ありがとうございました。明日でもう終わるんです。すみません。」って話しかけたら、「えっ、なんで終わるんですか?この間オープンしたとこですよね??」って驚いて...。期間限定って書いてあるのになんにも見てなかったり。「いい店が出来た」と思って毎日来てくれていたので、「2週間限定なんです」って説明しても「なんでなんですか??」って、ぜんぜん理解出来ないって感じできょとんとしてたり。ある日、ぱりっとした服装のあやしい感じのおじさん二人で「おかしい、おかしい」って不信そうな顔して入って来て。「どうしたんですか?」って聞いたら「何なんだここは?この場所でこんな値段で店の経営が成り立つわけがない」って怒られて。すみませんって謝りながら、「期間限定でカエルを見てもらおうという展覧会なんです。」って作品の説明をしたりね。そのおじさんたちは地元の不動産屋の社長と建築事務所の社長さんで新しいお店が出来るとチェックに入るらしいのね。それでこの場所でこの広さで客席もろくになくて、ビールも良質のウィスキーも300円、コーヒー200円で絶対経営が成り立つわけがないって思ったらしいんだけど、なんとなく納得して、幸せそうにビールを何杯も飲んで満足して帰って行きました。

機能を変える
その頃、都市施設の変換みたいなことに興味がありましたね。一般的に都市施設と言われているものがいろいろありますよね。レストランとかアミューズメントだと、商業施設とか、公共施設とか。通常ギャラリーとして使われているスペースが全然異質な都市施設に変わったりとか、ある目的の空間を別の目的で使ってみるということが出来ないかってまじめに考えていたんです。一般の商業施設や公共施設がギャラリーとか美術館になるとかの裏返しですね。駅や公共のスペースや町中に作品を持ち込むことの逆の状態です。

それでふりカエルBARでは、美術館やギャラリー空間の中に街のシステム、都市の機能を持ち込むとどうなるかと考えていました。あと、カエルがかびたり腐ったりウジムシがわいたりしてある意味一番いい状態、一番元気がいいところだったんでみんなに見せたいなあと。ただ単にそれを見せるだけじゃなくて、その流れもいっしょに。なぜ、これが生まれてどういうプロセスでここにいるのか。で今からどうなるのかという生い立ちをね。
そのギャラリーは二部屋あったんで、バーの横に資料室を作って、それまでの作品が年表のようになっていて、登場人物、鯉のぼりやゴジラやハニワ、やせ犬なんかの写真があって歴史が分かるようになっていてね。自分自身も過去の作品を振り返るっていうこともやってみようと。 お客さんの滞在時間がとても長い展示でしたね。早くても30分、長い人だったら2時間くらい資料室で読み込んでいました。資料室を出て来たら今度はバーで飲みながら話をするんで、皆さんかなりゆっくりしてもらったんじゃないかな。
びっくりしたのは、バーにするとお客さんって意外とたくさん入ってくるんだなあと。ギャラリーではなかなか人は入らないけどね。 つづく

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