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part4

パプアニューギニアでの2年間にどんな体験をされたんでしょう?

パプアニューギニア国立芸術学校の講師として赴任していたのですが、そこで僕自身が日本であたりまえのように持っていた価値観を覆すような体験がいろいろありましたね。
日本も明治以前そうだったように、パプアニューギニアには彫刻、絵画、音楽、パフォーマンスなど西洋的な芸術という概念がありません。儀式(先祖の霊を呼び出して交信するイベント)のために必要なものとして、顔にペインティングしたり、踊ったり、太鼓や笛などを演奏したり、声を出したりするいわゆる表現の原形は日常生活に溢れています。僕が赴任した時、ちょうどパプアニューギニアが国として独立して10年目だったのですが、国の産業振興の目的もあり、芸術大学が作られた経緯があります。もともとアートという概念もなければアーティストという職能を持つ人もいなかったのですが、彼等の日常の表現行為を様式化して、例えばキャンバスや絵の具を与えて彼等に絵を描かせたり、彫刻物を作らせたり教育しつつ、西洋の美術のシステムを導入する事でニューギニアのアートという様式のようなものを作ろうとするわけです。 でも、「平面に描く」という概念は自然の中にないんですよ。彼らは儀式(祭り)のためのツールとして、顔に顔料で描きます。それは、ある種変身する為の行為であり、決してその部分だけ切り取って成立するようなものではない。何世代も前の霊を呼び出して現実の世界ではないところとつながって、次の世代にその価値観を伝え、現実の秩序を守るために行われる行為の一部なわけです。

まさに生と直結している!
それが彼らにとっての日常なんです。平面というものが自然には存在しない事に気付いた時はショックでしたね。もちろん、文字という概念もなかった所ですから、描くという行為は何なのか?深く考えさせられました。

記号という概念
そうそう、彼らは地図を読めないんですよ。大学生ですら地図を見せて場所を聞こうとしても、分らない。地図というのは記号なんですね。ここには、僕達のまわりに普通にある新聞やテレビなどのメディアがない。記号が存在しない。あるのは言葉、音という記号ぐらいかな。音に関しては敏感でしたね。僕らは鳥というと羽があって空を飛んでる姿をイメージするけど、彼らは、鳴き声で鳥を認識する。僕達は子供の時に童謡や絵本、漫画などから動物などのイメージ(記号)が頭にインプットされていて、例えば、象は大きくて鼻が長く、キリンは首が長くて、ウサギは耳が長いとかね。実物を見た時に、その記号と一致するものを探して納得しているだけ。でも納得の仕方が彼らとは全然ちがうんじゃないか?僕らは記号をフォローしてるだけで、ちゃんと体験していない。実物のイメージをほとんど持ち得ていない。それは人間関係においても自然に対してもそうなんじゃないかと。もともとの自然の中には記号は存在しないんですね。そういうことを考えていくうちに、僕らのまわり(日本/先進国?)は総べて記号で埋め尽くされているのではないかと、絵を描くというのは記号を描いているのではないか?という感覚がしてきたんです。僕らは相当様々なメディア(情報)に犯されていると、当時は考えていました。それだけ実体から遠のいている生活をしているということですね。

リサーチという手法

パプアニューギニアでは、現地で暮らしながらフィールドリサーチをしている文化人類学者、言語学者などとの出会いもあり大きく影響を受けました。研究対象となる部族の土地に何年も住み実際そこでの生活を体験しながら、そこの儀式や、言葉、文化の研究をし、体系化したりしているんですけど、すごく強い表現だなあと思いました。その部族の生活そのもの(存在)が生活と密着した表現だったということもあって、圧倒されたましたね。 現場に入って、現場に身を投じる、フィールドワークを超えたリサーチという手法を帰国後は実践していこうと思ったんです。

ことごとく価値観を壊されましたけど、今のベースを作っているのはほとんどニューギニアでの体験なんですよ。

ヤセ犬はパプアニューギニアで誕生するんですよね。

この当時、美術とは何か?自分にとっての美とは何か?という疑問がずっとあった。自分の中で「美しさ」に対する確固たる価値観が必要で、その価値観なしに美術はできないなあと、またどういう手法で何を素材に作るのか?というのも大きな問題として抱えていました。当時流通しているジャンル(演劇とか彫刻とか音楽などというくくり)や素材(木を使うとか石を掘るとかいういわゆる素材)ではなくて、全然違う回路から素材を選べないか?と考えていました。 そんな時ある田舎に入った時にヤセ犬に出会うんです。病気で毛がちぎれ、痩せ細ったボロボロの犬に。でもそのヤセ犬がすごい変身を遂げる瞬間がある。それは村の人が特別な儀式のために必要な野豚狩りの時で、ヤセ犬は村人が仕掛けた罠に野豚を追い込む役目なんですが、野豚を見つけた瞬間、ぼろぞうきんのようだった彼らが、まるで猛獣のようにエネルギーに満ち溢れてすごい勢いで走り出した。それを目撃してしまったんです。その変身があまりにもすごかった。感動して涙がでるほど「美しい」と思ったんです。

このヤセ犬のように何も価値観のないぼろぼろの存在のものが、ある瞬間エネルギーに満ち溢れてある状態に変わる。変化する瞬間とか、変化そのもの、そのエネルギーが美しいと感じる。既存の価値観ではなくて、社会的に認められていないものとかマイノリティーであるものがある力を持つ瞬間。僕はここに感動する、自分にとっての美とは何かをこの時確認するんです。そしてそれを立ち上げる技術が美術ではないか。何でもないものを何かに変化させるテクニック、そこに美術は深く関わっているのではないかと。考えてみたらいろんなものにあてはまるんですよ。絵の具とかエンピツの粉が絵画に変わる瞬間とかね。

そのイメージを自分自身の意識に刻み込む必要を感じたんです。で、「よし101匹のヤセ犬を作ろう」と。先進国のディズニーの101匹わんちゃんではなくて、途上国の101匹のヤセ犬を作ろうと決めたんです。で、芸術学校彫刻科の工房に落ちていた木材を使って、最初のヤセ犬が完成したのが1987年。

 

「戦闘機をひくヤセ犬の群像」1998
パプアニューギニア国立博物館
サイズ:20mx20m 印刷物と立体によるインスタレーション
素材:木材の彫刻にペイント、自然木、ラジオ短波。鎖、他

パプアニューギニアを代表する彫刻家ギッグマイとのジョイント展出品作品
床には約5000枚の印刷物が敷きつめられ、鑑賞者はその上を歩く。印刷物には踏み絵の挿し絵とキノコ雲の写真がコラージュされている。壁には2年間のパプアニューギニア滞在でスケッチした水彩画を展示。


現地でも展覧会に出品するなど、作家活動もしていたようですが、美術とのよりよい関係は築けつつあったのでしょうか?


そうですね。ヤセ犬をつくりながら、協力・地域・適性技術の3つを表現の手法、素材に出来ないかなあと考え始めたんじゃなかったかな。当時は3原色と呼んでいたと思います。シアン/マゼンダ/イエローみたいな3原色。こういうことを素材に何か表現出来たら、既存の美術のシステムの中におさまらずに活動できるんじゃないかと。大変だろうなあと思いつつ自分にあえて難しそうな課題を与えたんです。その課題を乗り越えると僕と美術の関係は良くなるんじゃないかって信じる事にしたのだと思います。確か最初は「都市開発/地域計画/国際協力」を3原色とか言ってたかな。でも都市も地域も同じような気がして、開発という言葉にも抵抗を感じはじめて、整理していったんだと思う。適性技術という概念は青年海外協力隊の研修中に国際協力の授業の中で最初に知って、パプアニューギニアでの体験の中で学んだ考え方なんだけど、それぞれのサイト、場所の特性や問題を考えたうえで、その地域の関わる人達の持っている技術を使って、具現化していくことが重要じゃないかと。

例えば、国際協力の現場で、女性が仕事出来るようにと、ミシンをその地域に導入する話があるとします。昔の技術支援という発想では、最先端のコンピューターが組み込まれたミシンを何十台も寄付してしまうんです。でも実際、現地には電気がない場合もある。そうすると極端な話、ダムを作らなければということになる。手回しミシンにすればいい話なのに、日本ではもう手回しミシンは生産されてない。マレーシアとかフィリピンのメーカーだとそういう製品があるのだろうけれど、そこから買っちゃうと日本の経済には何の利益にもならないから、日本の電動ミシンを使えるようにと、ダム工事をしなきゃならなくなってくる。日本の商社を通して、日本の企業に工事を発注する。まあ、極端な話しですが、これでいいのかという疑問から適性技術と言う概念が必要になってくるわけです。
例えば、水が必要な場合、井戸を掘るという方法と、ダム作って、パイプラインを引いて水道を通すという方法があるんだけど、経済中心の価値観で動くとダム建設が必要だという事になってしまう。でも本当にその地域に必要なことは何かと考えた場合、井戸を掘る技術を持っている人を派遣すればいいという発想もできるわけです。その国、地域に最も相応しい技術を発見して実践すればいい。その場で出来ることをね。

ひとつのものを作るのに何百通りも方法があると思うんです。完璧なものを求めて、すごいエネルギーやお金を費やすやり方もあれば、拾ってきたもので簡単に出来てしまうという方法もある。「それってこれでいいんちゃう」っていうような意外な技術。表現する上で一番適正な技術を使う事を大切にしようと考えたわけです。だって最先端、ハイテクを目指すときりがないですもんね。それをやりたい人は他にいっぱいいる事でしょうし。

こういう概念が僕のなかで明確になってきたと同時に「よし美術をやろうと思えるようになってきました。一生、美術というフィールドと関わって自己表現をしていこうと、本気で思えるようになったんです。作家になるというよりも、価値のないものを何かに立ち上げていく技術としての美術を身に付けようと。

これは88年の話ですから、もう15年も前になるんですが、その当時は誰にもこの話を理解してもらえなかったんですよ…。

そして帰国後は不動産屋へ就職?
その頃、東京では地上げブームというか、再開発が各地で行われていて、たくさんの木造住宅が壊されていたんです。同時に建て直されずに残っている廃虚もけっこうあるなあと。それで、廃虚を使って何か出来ないかなあと思ったのがきっかけです。パプアニューギニアに行く前に京都の住宅を使った表現があるのですが、それは借家だったのでほとんど建物に手を入れられなかった。何かやり残した事があるような気もしていたと思います。じゃあ、まず現場に入ってリサーチ(自分の生の生活と関わった中で長い時間をかけて素材研究)をしないといけない、地上げ屋(不動産屋)に就職すれば、空いている廃虚に住めるかもしれないし、社会の基本的なルールや法律を勉強出来るし都市開発や地域計画の勉強も現場でできるかなと、さらにお給料ももらえるなあ、と。実は帰国後の方向性で悩んでいる時たまたま見つけた3ヶ月遅れの週刊誌のグラビアで10ページ程使って紹介されていたある土地開発業者の記事があったんです。その人の価値観がめちゃくちゃで、僕には新鮮で、一緒に仕事をしてみたいと感じたんです。しかもその会社が国際協力のような事をしようとしている。さらにその人は鹿児島の奄美の出身の人だった。これはいけるかもしれない、と帰国後資料を抱えて訪ねて行って、就職することになりました。

つづく
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雨森信