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学生時代から、美術の枠に留まらず「表現」について考え、演劇や屋外でのパフォーマンスなど、様々な表現活動を行う藤浩志さん。1986年から2年間、青年海外協力隊としてパプアニューギニア国立芸術大学で講師を勤め、帰国後は都市開発の会社で働いたり、鹿児島でカフェを運営してみたりと、常に現実と向き合いながら、アーティストとしての活動を続けている。そのエネルギーとフットワークの軽さにはいつも驚かされる。 
最近では、ビニール・プラスチック・コネクションという、家庭内で出る廃棄物、お菓子のパッケージやペットボトル、肉や魚の発泡トレイ、さらにはサランラップまできれいに洗って分別し収集。それを再利用した表現活動や、かえっこショップといって、子供の使わなくなったおもちゃを集めて、他の子供のものと交換するというシステムを作り、町の商店街や美術館などでも全国展開を見せている。

Part1

—とても長いストーリーになるとは思うんですが、最近よく出てくるOS的表現に辿り着くまでのお話をお聞きしたいと思います。

三十三間堂を見て愕然とする

鹿児島で生まれ育ったのですが、鹿児島には古いお寺がなくたいした仏像を見たことがなくて、高校生の時、土門挙の写真展ではじめて仏像を見てすごいと思ったんです。とにかく大学受験を理由に仏像のいっぱいある京都に行ってみたいと思っていました。それと、親が大島紬のメーカーに勤めていたということもあり、幼い頃から着物に触れる機会は多く、江戸小紋などの細かい柄、パターン、とにかくいっぱいいろんなものが列んでるっていうのが好きでね。(ちょっと自閉症的やねんけど)高校2年生の時、はじめて京都に来て三十三間堂を見て愕然として「これはなんじゃー!!!」って。特に美大に入ってアーティストになろうとか思っていたわけではなく、とにかく京都に行こうと大学を探しはじめました。
それで京都市立芸術大学に入学。大学からも近かったので暇があると三十三間堂へ行ってました。
一つ一つには仏師(彫刻家)がいてそれぞれの作品もすごいのかもしれないけど、まあ似たようなカタチの千手観音じゃないですか。作品単体への興味ではなくて、あれだけ列んでいる迫力に興味がありましたね。『なぜあの空間がつくられたのだろう?』って。(今から考えるとそれが今のOSシステムにつながってるんだけどね。)

柄とかパターンが好きだったのでたまたま染織を専攻したんです。でも日常僕らは着物って着ません。結局、着物を着ていた時代の状況や空間、生活様式はどうだったのかとモノにまつわる周辺の状況に興味を持つようになって。そのうち、江戸時代の技術、職人のレベルが高く、それは経済の状況、それをサポートする側とそれを欲しがっている状況に対応していることがわかってくる。そんな時代に生まれて本物の職人になりたかったって考えていたな−。  
それと、両親や親戚の家業でもある大島紬は分業の世界でね。図案を描く人、パターンにする人、糸を絞める人、染める人、織る人、いい作品になるとそれぞれの職人が5〜6人で1カ月ずつぐらいかけて作り上げていく。家では祖母が大島紬織っていて、それを見て育ったんで、芸大に入って、一人で全過程をこなし展覧会で発表している世界を見て違和感を感じていました。分業の世界でいいものが出来ていくという感覚があったので、「ひとりで作っていいもん出来る訳ないやん」ってね。自分で出来ることには限界がある。そこで、じゃあ自分は何を創るのかって考えたわりには、無茶苦茶なものを作っていたわけだけど(笑)。

2回生の制作展の時(京都市美術館で毎年行われる)、幅が一人2mまでという制約があって、でも高さは何mでもいいっていうので、幅1mで天井までの高さのあるビール瓶、キリンビール1本を草木染めで染めたんです。モチーフは何でもよかったんだけど、その規制の中で何が出来るかなって考えて。で、その時、もう1カ所空いている場所(天井)を見つけてね。それで先生に聞いてみると使ってもいいっていうので、次の年は天井に10m x10mの作品を作ることに。その頃、妙心寺の法堂にある天井画「八方睨みの竜」に興味がありましてね、どこから見てもこっちを見てるように作られている作品です。何でそんな天井画が出来たのか?そんな巨大な10x10mもあるような竜の絵を天井に描く必要があったのか?その上り竜に見えたり下り竜に見えたりする仕掛けやそれが作られた状況に興味を持って。それの模写をしようと。大きさも美術館の天井にちょうどよくってね。模写っていってもめちゃくちゃ解釈されたものだったけどね。で、作品で天井を全部覆ってしまったら、照明が全部隠れてしまって、僕の作品は裏から照らされてきれいだったけど、他の人の作品が全部暗くなってしまって、先生も慌てて僕の作品の下にワイヤーを吊るして照明を付けて一件落着したんだけど、みんなに嫌がられました。

[ハッポウニラミノリュウモドキ]
展覧会/京都市立芸術大学制作展
期間/1982年2月
展示場所/京都市立美術館
サイズ/10m×10m
素材/綿布に臈纈染め、プロシオン染料
備考/京都妙心寺法堂の狩野探幽作の天井画「八方睨みの龍」のカラーコピーイメージで制作。大学三年の進級制作展の会場の天井に展示したため、同級生のみんなにひどい迷惑をかけてしまう。


今から思うと、多分その時は空間を創りたかったんじゃないかなって思います。 
「モノではない」と。




—芸大では演劇部とバレー部に所属してたんですよね?

バレー部では先輩から酒を飲んで話をする事はしっかり教えてもらいました。1年生の時、構想設計の古谷さんっていうバレー部の先輩に「学校なんて行かなくてもいいからとにかくギャラリーを廻れ」って言われてね。その当時、寺町二条(京都)に住んでて、とりあえずなんでも見て廻ってました。ギャラリーはとても入りにくい恐い雰囲気だったけど。作家が腕組んでこっちを睨んでいるような。その頃は版画が全盛期で、田中孝、木村秀樹、山本容子とかが展覧会をしていて、みんなバレー部の先輩だって教えてもらったりして。版画はおもしろいなあと思ったけど。現代美術と呼ばれているものは全然分らなかったし興味もなかったかな。表現ってどういうことなのかよく分らなかった。

自分が何をやりたいのか、疑問を持っていた時にそこに演劇があったんです。劇団座・カルマと言って、後にダムタイプシアターに変わっちゃうんですけど。舞台をつくるおもしろさ、音響、照明をつくるおもしろさ、ストーリーをつくるおもしろさ。特に舞台に立って観客をあやつる空間、観客の気持ちをその瞬間完全に閉じ込めて操るっていうのが快感でした。それにはすごい充実感、達成感があってね。その頃、寺山修司の『天井桟敷』や唐十郎を見たり、澁澤龍彦の世界(その当時の独特のドロドロとした空気)に惹かれてその辺の本を読んだり、演劇評論を読んだりもしていて。
それで、セクシャリティについて論じていたりしてね。僕自身が女性に恋愛出来ない悩みとか、ごちゃごちゃとね。劇団でイメージメーカーだった中林正巳君もちょうど自分のセクシャリティについて考えていた時期だったので、演劇の内容はそういう題材がストレートに台本になってた。テーマは陰にこもってるんだけど、でも舞台はエンターテイメントに徹していて、歌あり踊りあり笑いあり涙ありの大スペクタクルロマン。結構この頃が面白かったね。正巳がキーパーソンだったと思うな−。新入生の価値観を塗り替えていったもんね。独特のやさしさとわがままさでね。その頃1年生で入ってきたのが古橋悌二や鍵田いづみ、小山田徹、安藤由理子、いっぱいキャラがそろってたね。そのうち個人的にはハンスベルメールにはまっていって、デッサン室にはり付いてずっと女性の体をデッサンしたり、自分の中の性的なものを表現しようと人形、マネキンを使うように。



マネキンと暮らしていた数週間

鹿児島の進学校から突然芸術大学に入ったので、芸術家の素質を持っていない自分が芸術大学に通っている事にギャップを感じていましたね。自分の中に芸術性を見い出そうとして、自分が感動する作品と出会うと、そういうものを自分でも創ろうとしてね、自分の内部から必死に搾り出そうとしていた時期があったね。その頃ポケット瓶のウイスキー、トリス(安かったしね)を持ち歩く癖がついてしまって、しばらくアル中状態に。
飲みながら女性を描くという、そういうアーティスト像にはまっていったんやね。 そのうちマネキンと暮らしはじめて、マネキンの絵を描いたり、マネキンに化粧をしたり、切断したりね。
閉じこもって制作しているうちにどんどん人に見せられない作品が出来ていくように。日常とのギャップを感じるようになる。(一歩間違うと犯罪者になり得る)人とも話せなくなって、家から出られなくなっていく。

自分ではすごくいい作品は出来るんだけど、(半分アル中やからわからんけどね)人には見せれない。友だちにも見せられないし、学校にも提出出来ない。ましてや親、兄弟になんて見せることなんて出来ないものが続々と。
親や兄弟や友人の存在が自分の表現を規制してるんだと思いこんで、すべての存在を否定するような考え方にはまっていったりして。で、自分がだんだん恐くなってきて。「何やってるんだろうなあ?」って。
今考えるとはずかしい話だけど、僕にとっては大事な時期だったと思っています。
そんな時、友人の吉村精二くん(現在漫画家/大阪在住)が心配して来てくれて、その生活から脱出する。と同時に、「作品を創って人に見せるって何なんだろう?」、「見せなくてもいいのでは?」って考えるように。でも逆に演劇では人を(観客を)巻き込んでいくのはすごくおもしろいなあと。
そういえば、最初にやった展覧会はその吉村精二君と学内で行った「現代青年美術展」っていう展覧会で。性器がモチーフになった現代美術作品のパロディーで埋まったような展覧会だったのを今思い出した。もう忘れてました。


鯉のぼりとマネキネコを染めはじめる
それまで自分の中にあるドロドロしたものをテーマにしていたけど、自分とは全く関係ないバカバカしい題材を扱いたいと、大学院の時には、僕とは関係ないもの、カタチは何でもよくて、どうでもいいもの、とにかく人が見やすくて関係を創れるものをつくろうと鯉のぼりとマネキネコがモチーフに。自分を変えたかったということもあってね。5mの鯉のぼり15匹と70匹のマネキネコを毎日とにかく染め続けた。この頃もアル中まだ残ってたね。

—でも「必死に川を上っているつもりの鯉だろうか」という意味ありげなタイトルですね。
鯉のぼりは空を泳いでるんだけど、中身は空っぽで。その空っぽという点で自分自身と重ねて見ることができた。なんせ「自分は空っぽ。自分の中からは何も生まれてこない。」と痛感していたんです。

自分は自由に元気に泳いでいるつもりでも、実は流れの中で泳がされているだけなんじゃないかとか、泳いでいるつもりになっているだけじゃないだろうかとね。
例えば画材屋に売られている商品によって作品が決まってくるとか、東急ハンズによって僕らの表現が変わってくるとかね。そういう流通とか消費とか経済システムが生み出す商品や美術大学のシステムなどによって規定されていて、その中で自由にやっているつもりになっているだけなんじゃないだろうか?と。それは空しい姿だなあと。その当時作品のコンセプトを説明しなければいけなかったので、こういうことを企画書に書いて提出してました。コンセプトは暗いものだったんです(笑)。


そしてその鯉のぼりが鴨川に

川に展示するには、許可がいるとは思っても、どこに行ったらいいのか分らなかった。それで市役所や警察、消防署などに行ったり、交番もいったかなノどこに許可をとったらいいのか聞き廻ったんだけど、誰も相手にしてくれない。その頃は、まず自分のことや企画内容についてきちんとしゃべれないし、プレゼンテーションの仕方も知らない、彼らにとったらコンセプト自体訳がわからない。それで散々たらい回しにされ、嫌な思いをしながら、でも「これおもしろいと思いません?」って聞いてみるんだけど、それ以前に「ダメだ」ってことしか言わないんですよ。結局、許可は取れなくて。
そもそもなぜ、三条の鴨川かっていうと、横にからふね屋っていう僕が1回生の時オープンした喫茶店があって、毎日6時間以上過ごしていた思い入れの深い場所だったんです。その頃いわゆるウナギの寝床と呼ばれる京都の町家の一番奥の2階にある3帖2間を間借りして住んでいて、自炊も出来ないし、お風呂も家族の後を借りている状態。いつも帰ると、家族が団らんしている中を通って自分の部屋に行かなければならなかったので、だいたい大家さん達が寝静まってから帰るようにしていた。その頃入り浸っていた喫茶店から見える風景が三条鴨川で、何かするんだったらここでしたいと。

[吾輩は本当のことがコミュニケーションできない猫になってしまっていた]
展覧会/ART NET WORK'83−様々な相互作用−
期間/1983年8月23日−9月4日
展示場所/京都河原町周辺、各店舗の店頭
サイズ/1点1m×70cm、70点を河原町周辺路上にインスタレーション
素材/綿布に糊の筒描き、レマゾール染料、ベニヤ板

ちょうど、80年代前半で、東京ではパルコがオープンし、ニューヨークではキースへリングの落書きが注目されはじめた頃だったんじゃないかな。ストリートアート系が出てきた頃、
「三条鴨川の河原でやろう」って、松本静明(現在郵便局の局長)が言い出して、橋の上で「現代美術の歴史は京都から変わるんやー」って叫んでいたのにとりあえず付き合ってたね。出品者は総勢40人ほど。石原友明、松井智惠、杉山知子、今村源、山部泰司らが先輩で中原浩大、松井紫朗あたりが後輩、劇団の後輩の古橋悌二もまだ3回生だったけどパフォーマンスやってもらった。その当時そのあたり皆学生でとりあえず声をかけて参加してもらってね。アートネットワークっていうタイトルで、僕ら学生が企画。シンポジウムもやったりして。でも実際、平面の作品を屋外で展示するのは無理があるし、許可もいるし、結局、周辺のギャラリー五カ所くらい借りることに。最終的に外に展示したのは僕だけだった。  
鯉のぼりとマネキネコをつくって、13匹の鯉のぼりは鴨川へ、マネキネコはお店の前に1個ずつ置いてもらおうと企画書を書いて河原町の商店街一件ずつ全部廻ってお願いした。でもまたことごとく断られて。結局、ギャラリーの前五カ所ほどにまとめて設置したんだけど。今から考えると、何も知らなかったなあ。手順をきちんとふんでいれば、実現してたかもしれないって。でもその時の体験、悔しい思いが次につながっていくんです。

[必死に川をのぼっているつもりの鯉なのだろうか?]
展覧会/ART NET WORK'83−様々な相互作用−
期間/1983年8月23日−9月4日
展示場所/京都 鴨川内三条大橋付近
サイズ/1点5m×1mのこいのぼりの作品13点を30m×30m内にインスタレーション
素材/綿布に糊の筒描き、レマゾール染料、ロープ、川の水の流れ
備考/河川法管理上の理由で京都府土木局により撤去される。朝5時から夕方5時頃までわずか12時間の展示 2日後京都市立芸術大学では緊急の教授会が開かれ、梅原猛学長を代表とする学校の意見として京都市を通して京都府に対して作者に無断で美術作品を撤去したことに対する抗議文を提出。京都府は私に無断で撤去したことについて謝罪を表意。私は無断で展示したことについて京都府知事に対して誤字の含まれる始末書を提出。



鯉のぼりは許可なく決行、三条鴨川へ
朝の5時から2時間ほどかけて13匹の鯉のぼりをセッティング。(設置後、写真も撮ってもらったんだけど、後になって、カメラマンのミスで撮れていないことが発覚!だから写真として残っているは新聞記事だけなんです。)夕方、展覧会オープニングでみんなで飲んでると、鯉のぼりがなくなってるよって言われて、慌てて見に行ってみると、きれいになくなっていて。でもあんな大きな13匹の鯉のぼりを盗むなんて、世の中にはすごい人いるもんやなあって。

その晩のニュースで事件に!「鴨川に鯉のぼりが13匹現わる!?」
(参照http://www1.linkclub.or.jp/~fuji/carp/index.html
僕はアートネットワークのオープニングの後、酔っぱらってて知らなかったんですけど、事件としてその晩にテレビで放送されたらしいです。次の朝、新聞にも載っていて、大学の教授からも電話がかかってきて。そこで、京都府の土木局が撤去したことが分って、「あー怒られるなあ。謝りに行かなあかんなあ」って。でも、次の日からバレー部の合宿だったので、そのままにして長野県の白馬へ。3日ほどして帰ってくると、また大学から電話があって、「大変なことになってるぞ」って。教授会が開かれて(当時学長だった梅原猛さんの召集で)、どうなったかというと、京都市の文化芸術活動を高めるために京都市には京都市立芸術大学があり(京都市の観光課の管轄)、その学生が展示した、明らかに芸術作品であるものを京都府は無断で撤去したということについて、京都市が京都府の土木局に対して正式に抗議してたんですよ。で、とにかく土木局に行くように言われて、記事かいてくれた新聞記者の人と一緒に行ったんですね。恐る恐る入っていったら、奥へ通されて、ぞろぞろ人が出てきて名刺を渡されて、「この度はまことに申し訳ありませんでした。」って謝られて。「無断で撤去したことに対して京都市長の方から直々に抗議がありまして、京都府としては作品だということを知らなかったものですから撤去してしまいました」と。僕にしてみれば、今までずっと話そうと思っても聞いてもらえなくて、企画書を持ってまわっても相手にされなかったのに突然、向こうから謝られて、ちょっと嬉しかったりしたんだけどね。(その時のお茶とお茶菓子が高級で美味しかったのを覚えてる)でも、「無断で設置したことに対して始末書を書いて下さい」って言われて、その場で書いたんです。でも書き間違いがあって、もう一枚書き直して提出したので、ファイルには京都府土木事務局の便箋に書いた書き間違った始末書が残ってる。

これをやったことで、ものそのものではなくて、何かをすることで予期せぬ何かが起こるという「仕掛け」に興味を抱くように。

Long Interview vol.02 藤浩志 archive
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雨森信