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古典芸能を習おう
日本の守り伝えられてきた芸能を何か身につけてみたい…近頃そう思います。
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+ 源甲斐智栄子

その2、先生に聞いてみる

 山村流のご宗家からご紹介頂いて、山村若禄之先生にお話を伺って来ました。
 初めてお目にかかった若禄之先生は、インテリなキャリアウーマンって感じのカッコいいスーツ姿でした。
 若禄之先生はご自身のお教室はもちろん、毎日文化センターでのカルチャー教室、また、まず上方舞と上方文化を知って頂きたいというお考えで、気楽な塾感覚のお教室なども持ってらっしゃるのだそうです。
 私は先生のご親切なお人柄に甘え、厚かましくも、翌日は毎日文化センター、その翌日は自宅のお稽古場まで写真を撮りに伺わせて下さいとお約束をさせて頂き、おまけに、初対面のその日に一冊のファイルまでお借りしました。
 そのファイルは、今まで先生がご出演された舞の会やら、上方舞や山村流を身近に感じてもらえるよう、先生ご自身がパソコンで美しく作られた解説など数々のプリントが整理されたものだったのですが、自宅に帰り、そのファイルを開けた途端、とてもよいお香の香りがして、あらためて、若禄之先生が、上方舞、山村流の優雅さを伝えて下さったような気がしました。

—上方舞を習ってみたい、でも、どうしていいか分らない、そうした方って結構いらっしゃると思いますが…

若禄之「そうですね。この前も塾にいらした方が“お電話するのに物凄く勇気がいりまし
た”って、おっしゃっていたんですよ。敷居が高く感じられるのだそうです。私もその敷居を何とかしたいと思っております。
その敷居って、やっぱり情報がないってことなんですよね。私はある意味気負っているというか、舞が好きという純粋さとは別に上方の文化を次の時代に伝えて行きたいっていう思いがあるのです。
山村友五郎という創設者がこんなに素晴らしい振りをつけ、山村流がおこった天保5年(1834)から今日に至るまで、脈々と祖先によって受継がれてきたのですから、私もそれを次代に伝えていきたいと思うんです。だから、一人でも多くの人に知ってもらいたい、とにかくかじってもらいたいって考えています。
それと私が弟子に入った頃と違って、ただ“耐えなさい。お稽古して苦労しなさい”では、今の時代感覚からいうと、それでは難しいでしょう?
受継ぐものは受継ぐものとして、伝える手法は時代にあわせて工夫していかなければならないと思います。」

—先生は山村流とどうして出会われたのですか?

若禄之「私が舞踊を始めたのは3歳の時で、母が山村でない流派のお稽古をしておったんですね。父は商売をしておりましたから、当時の接待っていうのはお座敷接待だったんですよ。三味線や小唄がもっと自然なことだったんですね。家には三味線もありましたし。」

—お父さんのお生まれはいつ頃なのですか?

若禄之「私は父の遅い時の子供ですのでね。父は年ですよ(笑)。明治35年生まれなんです」

—うちのおじいちゃんもそう言えば…

若禄之「おじいちゃんですか(笑)」

—大阪にはある時期までたしなみごととして、そうした文化がはっきりありましたね。

若禄之「そうです。俳句とかもね。カラオケはまさしくそうなんですよ。当時はそれを芸妓さんが三味線で伴奏して、お客さんが小唄を歌っていたりでしょ。母も結婚前から舞踊をしておりましたので、それで私も習いたいということで始めたのですが、当時の大阪は“行儀見習いは山村へ”っていう言葉があって、谷崎潤一郎の細雪にもありますように、習うんだったら山村へっていうことで私は山村で習うことになったのです。
途中、引越しをしたこともあってちょっとバレエを習ったりしましたが(笑)、舞が良かったんですね。それでもう一度、山村の門を叩いたのです。
私はある時期までずっと企業に勤めていまして二足の鞋をはいてました。母はその前に亡くなりましたが、父も20代に亡くなりまして、その時に私の主流は舞だなと自覚しました。」

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