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7/15(火) 2:04AM from細馬 猫道おへんじ |
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先週だったかNHKの「芸能花舞台」で「至芸・八世竹本綱大夫」
をやっていたのを見たのですが、
カット割りがなんとも人形アニメーションぽくておもしろかったです。たぶん、
いまの記録映像ならもっと引いて撮るだろうと思うのですが、当時は、人形どうしが
語り合うところでじつに細かくカットを割って、二つの(二人の)人形を交互にアップに
して対話を作っていく。そこからは人形遣いの姿も大夫や三味線の姿もはみ出している。
これがなんともハイパーリアリズムで、人形の表情がじつによく分かるよい映像なのですが、
いっぽうで文楽の舞台で見るときのような、あちこちに分散したかと思うと集中するような注意の
移動がない。
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目だけで見ている、というのは実はぼくはあまり感じない感覚で、むしろ
臨場感というか、身体ごと入っていくような感覚を時折体験します。
「マルコヴィッチの穴」はとてもおもしろい映画でしたが、あの「誰でも十五分だけ
マルコヴィッチになれる」という設定、最初はとても視覚的な体験なんですね。
エルンスト・マッハが描いた自画像みたいなぼんやりした枠が画面の周りにあって、
その中にマルコヴィッチの視覚がおさまっている。
マルコヴィッチになったものの、その手に「動け、動け」と声で命令している。
命令通りに動く手を目で確認して「そうだ!」なんて喜んでいる。
そもそも映画というメディアが視覚的だからあんな演出になるんだと思いますが、
身体的な体験を描くのに、まず視覚で入っておいて、視覚と身体の間の違和感を描く
ところがおもしろいなと思いました。
で、この映画、後半になると、だんだんマルコヴィッチから
見た画面枠つきのシーンが減ってくるんですね。マルコヴィッチに入っちゃった人と、
マルコヴィッチ自身の差が縮まってくると、マルコヴィッチの身体をただ外側から
写すようになる。おそらく、マルコヴィッチの視点から見た世界を
何度も写しちゃうと、視覚と身体のずれが強調されすぎちゃうからなんでしょう。
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ぼくは建築写真を見るときにも、その写真はどこからどんなアングルで撮ったんだろう
ということをつい考えてしまいます。この感覚はついここ数年くらいのことです。
どうもパノラマや絵葉書を見過ぎたせいなのかもしれません。
最近、学生とやっていることの一つに、「絵葉書再訪計画」というのがあって、
これは、彦根なら彦根の昔の名所絵葉書を集めて、その絵葉書写真が撮影された
場所を特定する作業です。単に、そこに写っている場所にいくのではなくて、
この俯瞰のアングルを実現するには、どこかに築山のようなものがあったはずだ・・・
なんて具合に、被写体からずんずん後ずさりして、カメラの置かれた場所を特定するわけです。
これはとてもおもしろい作業で、写真を撮影したカメラ位置にぴったり立つと、
風景写真が一挙に生々しい空気を帯びてきます。明治や大正に撮影された写真の中に、
ちゃんと風が吹いていたり水がひたひた打ち寄せているのがわかる。
視点が身体を獲得する、おおげさに言うと、そういう感覚です。
昨年、ベルンでクレーの抽象画を見たときも、クレーの面構成とベルンの町の風景との類似性が
とても気になりました。ベルンの町を歩きながら、遠近が移り変わっていくのを体験する
とき、クレーの画面構成が腑に落ちる瞬間があります。
こういう感覚は、もしかしたら視覚芸術には不要というかよけいな
夾雑物なのかもしれません。ところが、この夾雑物が最近とてもおもしろい。
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親指記で、畑の話がときどき出てきますが、あれは琵琶湖の沖島に行ったときに打ったものです。
自動車の走らない島で、みなさん畑仕事に行かれるときは、三輪車で移動しておられる。
この三輪車の速度というのがとても印象的で、つい親指が動いてしまいました。
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