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+ 山下里加
+ 細馬宏道(ほそまひろみち)
1960年西宮生まれ。滋賀県立大学人間文化学部講師。
会話とジェスチャー解析を中心としたコミュニケーション研究のほか、パノラマ、絵葉書、幻灯などの視覚メディアに関心をよせている。
主な著書に『浅草十二階』(青土社)、『ステレオ』(ペヨトル工房、共著)。訳書にリーブス、ナス『人はなぜコンピューターを人間として扱うか』(翔泳社)。
WWW版『浅草十二階計画』:
http://www.12kai.com/
親指記:
http://www.12kai.com/oyayubi.html
e-mail: mag01532@nifty.com
7/28(月) 10:47PM from山下 猫未知を通って、未知との遭遇

山下です。

お返事おそくなりました。
「至芸・八世竹本綱大夫」は、しっかりビデオにとりました。
他、文楽オタク達からビデオを収集中。お楽しみに!

> これがなんともハイパーリアリズムで、人形の表情がじつによく分かるよい映像なので
> すが、
> いっぽうで文楽の舞台で見るときのような、あちこちに分散したかと思うと集中するよ
> うな注意の移動がない。

そうそう。テレビだと安心して見ていられるんです。あんまり悩ましくない。
うん、この前見たのエイヤ=リーサ・アハティラの三面を使った映像作品の悩ましさ、不安定さって、私としては文楽に通じるんです。。。強引かな。ああ、でも映像作品なら、もう一回見て確認できるのですが、文楽は見過ごしてしまうとそれきりだからなぁ。悩ましさ倍増ですね。

そういえば、先日、香住にある円山応挙のふすま絵があるお寺に行くツアーに参加しました。お寺も堪能したのですが、観光バスでの道中、これまで放送された応挙特集番組のビデオがけっこう面白かった。4〜5本流していたんでが、屏風やふすま絵の撮影方法が時代とともに変化していくんすよ。
昔の番組は、屏風もぺたんと広げて1枚の絵画にして撮っている。カメラは真正面からの固定。
それが、だんだん屏風は折り曲げて床に立てて撮りはじめ、最近のではカメラが人間の視線の動きをなぞるように屏風の端から真正面、そして端へと動いていたりすのです。
同じ屏風で、何通りもの「見る」ができる。昔が間違っていて、今が正解というのでなく、何通りも出来て、お得した気分。それに、まだ未知の「見る」があるかもと思ってドキドキしてしまうのです。

> 目だけで見ている、というのは実はぼくはあまり感じない感覚で、むしろ
> 臨場感というか、身体ごと入っていくような感覚を時折体験します。

「マルコヴィッチの穴」は見ていないんです。。。ごめんなさい。
でも、上の一文でありありと思い出したことがあります。
以前、細馬さんの個人HPで「シュバルの理想宮」を訪ねていったことを書いていらっしゃいましたね。(以下のHPアドレスを掲載してよいですか?)
http://www.12kai.com/20000804.html
http://www.12kai.com/20000812.html

あの文章には、すっごく興奮しました。ホントです。知人(さとう@みんぱく)に急いで報告したぐらい。
『(郵便配達員だった)シュバルが、世界から石という郵便を集め、それをしかるべき場所に配達していった跡ではないか』(HPより)
ゾクゾクしました。私は、この文章でシュバルの宮殿に出会ったんです。
ずっと前からシュバルの宮殿の写真も話も聞いていましたが、それはペラペラの情報でしかなかった。細馬さんの文章を読んでいくなかで、宮殿が立体化し、重さを持ち、風が吹き抜ける場所として立ち上がってきたんです。
実際に、「シュバルの宮殿」に私が行ったらどんな感慨を受けるのだろう……たぶん、細馬さんの目と身体をたどるように、シュバルをたどり、不在の人の存在を実感するだろうと想像します。

「見る」からまたまたぶれてきてるようですね。。まあ、いいかー。

この前の土曜日(7月26日)に、加古川でフェルトアップリケを大量に作っている女性の取材に行きました。知的障害のある女性です。
彼女の作品は、可愛いし、色鮮やかだし、モチーフも台所用品や食べ物など具体的なものばかりで、ごくふつうに「見て」いても楽しいんです。しかも、異常に大量にある(この2年で衣装ケース3箱ぎっちり)。
衣装ケースに手をつっこんで、布を引きずり出して見る。ひとつとして同じものはないから、いちいち驚いたり、これは何だろうと考えたりしながら見ている。でも、次第に「見る」ことに疲れてくるのです。
疲れて、1枚2枚を手のひらでもてあそびながらだらだらと雑談し始めてしばらくすると「見る」とは違う情報がどんどん入ってくるんです。
フェルト布の適度なあたたかさ、厚みその重なり。重なりで作られたカタチ。カタチの連続。ごく簡単に縫いつけられた部分と、執拗に針を通して作ったあごや指の関節の部分を指先で読みとっていく。
何というか……生々しい思考の輪郭をたどっているような気分になるのです。
それが正解かどうかは、彼女は話してはくれないけれど。

お母さんに聞いたところでは、彼女は、制作途中では、どんな小さなパーツでも必死になって探し、思うような色がなければ大騒ぎするけれど、完成するとあっさり捨てていたそう(以前は、お母さんがゴミ箱から拾って保管していた)。アップリケも、絵画も。お母さんが持っていたピカソの画集も、何度も何度も見返し、ペンでなぞったりしながら、最後の最後には1ページずつ破り捨てるらしい。好きなものほど、なくなっていく。消していく。物としては、存在しなくなってしまう。
でも、完成した作品やピカソの絵は、彼女のどこかに収納されている気がする。
気がするだけで、確かめようのないことだけど。

そんなことばっかり気になります。こういうのも、芸術鑑賞の夾雑物なんでしょうね。

来月7日は、文楽ですね。ぜひ、「妹背山」の浮世絵を見せてください!
(私にとっては、アウトサイダー・アートも文楽も同じ興味のベクトル上にあるのです)

追伸・アップリケの作品は、以下の展覧会で見ることが出来ます。
PARK+mamucho exhibition『GO!GO!PARK』
●8月26日(火)〜9月8日(月)11:00AM〜8PM
月休 入場無料 会場アセンス美術(アセンス心斎橋店5F)
問パークエディティング TEL 06(4704)1139

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