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+ 山下里加
+ 細馬宏道(ほそまひろみち)
1960年西宮生まれ。滋賀県立大学人間文化学部講師。
会話とジェスチャー解析を中心としたコミュニケーション研究のほか、パノラマ、絵葉書、幻灯などの視覚メディアに関心をよせている。
主な著書に『浅草十二階』(青土社)、『ステレオ』(ペヨトル工房、共著)。訳書にリーブス、ナス『人はなぜコンピューターを人間として扱うか』(翔泳社)。
WWW版『浅草十二階計画』:
http://www.12kai.com/
親指記:
http://www.12kai.com/oyayubi.html
e-mail: mag01532@nifty.com
8/19(火) 6:16PM from細馬 よその猫はみな愛想がよく見える。

細馬です。今年の夏はどこに行ったのか、昨日はサンマを焼いて食いました。

屏風の「曲」って、不思議ですね。そのカメラが移動するときのおもしろさ、
よく分かります。

6月だったか、神戸市立博物館で「地図屏風」を見たんですが、これがなかなかよかったです。屏風の曲はジグザグしているので、横から見ると、離れた曲と曲とが重なって、地図のおもわぬ場所どうしが接続する。
なにもない海と山とがつながったり、その中にふいに平野が挿入されたりする。歩きながらあああそこに見えてたのが蔭に隠れてしまった・・・と思っていると、今度は向こうの方からまた別の曲が表れてくる。

普通の絵画鑑賞だと絵はあらかじめ全部見えてしまうものであって、「絵が隠れる」とか「あらわれる」なんてことありえないですよね。
ところが、屏風の場合は、観客から絵の一部を隠したりあらわしたり、ということが、鑑賞に欠かせない。

菱田春草の「落葉」を見るときは、一つの曲の中で宙を舞う葉が別の曲に入り込んでいくような錯覚に陥ります。その行方を追うべく移動していくと、あたかも葉から葉へと空間が引き継がれていくように落葉が揺らされている。
鏑木清方の「墨田河舟遊」には、あちこちに大胆な空白があって、少女が伸ばす手は、横から見るとまるで虚空をつかんでいるように見える。さらに移動しながら見ていくと、それは椿の花を投げたんだってわかります。虚空をつかんだように見えたことも、椿の花を投げていたことも、どちらも屏風のもたらした感覚であって、どちらが正解というわけではない。あえていえば、そうした感覚の変化ぜんたいを、屏風体験というべきだろうと思います。

その屏風番組のカメラ移動は、屏風コンシャスでいいですね。
いやあ、屏風はすごいです。
美術評論には屏風論って存在するんでしょうか。

シュヴァルはショックでした。屏風体験に重なりますが、理想宮でも「移動しながら見る」という体験が大きかったと思います。
たぶん、シュヴァルはあらかじめ全体を計画してあんなものを建てたのではない。石を置きながら、自分の作ったパレスを歩いてるうちに、どんどん次の石の置き場所を思いついちゃったんでしょうね。ただ、普通の人なら、そういう思いつきの痕跡をどんどん消して、体裁を整えると思うんですが、シュヴァルが「生(なま)」なのは、そういう痕跡を隠さないで、逆に次々と増殖させるところだと思います。
で、増殖していくと、どこかでふっとショートカットができたりする。
未来が突然思わぬ過去に出る。
痕跡を残すことで新たな時間が生まれる。

この「痕跡」というのは「生(なま)の芸術」もしくは「アール・ブリュット」を考えるときのひとつの鍵だと思ってます。「アール・ブリュット」はよく世間や常識から逸脱している、そのハミダシぶりがもてはやされちゃったりしますけれども、ぼくは単にハミダシていることよりも、その人がその作品を作った時間の流れが、どこからどこへ突き抜けているかに興味を持っています。ものを集積したり繰り返したりするうちに、ふっとどこかへ出てしまった、そういうサムシングのある作品は見てて何か感じるところがあります。

こんどいちどアップリケ見せてくださいな。

さて、来週からしばらくヨーロッパを転々としてきます。図書館巡りと
絵葉書屋巡りに明け暮れることになりそう。

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