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+ 山下里加
+ 細馬宏道(ほそまひろみち)
1960年西宮生まれ。滋賀県立大学人間文化学部講師。
会話とジェスチャー解析を中心としたコミュニケーション研究のほか、パノラマ、絵葉書、幻灯などの視覚メディアに関心をよせている。
主な著書に『浅草十二階』(青土社)、『ステレオ』(ペヨトル工房、共著)。訳書にリーブス、ナス『人はなぜコンピューターを人間として扱うか』(翔泳社)。
WWW版『浅草十二階計画』:
http://www.12kai.com/
親指記:
http://www.12kai.com/oyayubi.html
e-mail: mag01532@nifty.com
10/24(金) 3:15AM from山下 猫道を通って、迷子になりに。

細馬さま。
山下です

ゆっくり、ゆっくり続いてきた猫道交換日記も、もうすぐ終わり、のはずです。
なんだか切ないですねえ。

先日は、大阪の東住吉区の『文楽チョキチョキ勉強会』から、滋賀の近江八幡で『記憶の測量計』まで、おつきあいくださりありがとうございました。

“勉強会”いかがでした? 
大夫のワークショップって私も初めてでしたが、難しいもんですよね。
声は出せるけれど、操るのは難しいなあ。もうちょっと、“声”を手や足みたいな道具として意識すると出来るのかな。
細馬さんは、いかがでした?

『記憶の測量計』も、家が壊れなくってよかった。本気で心配していましたから。
あんがい、丈夫なもんですね。家って。
あの展覧会は、その後、いろいろ波紋を起こしています。
私の中でも。
まだ、上手く言葉に出来ないのですが、私が初めて企画した展覧会『図鑑天国』でも、同じようなことが起こるでしょうねえ。
11月10日〜23日です。 http://www.osaka-seikei.ac.jp

***

ところで、話はまったく変わりますが、和歌山の新宮(正確には三重県の成川)にいる親戚のおじさんが亡くなりました。
その知らせを聞いた時、私は東京に出張していて、うーんと悩んだ末、東京から夜行バスで新宮まで行ったのでした。11時間かかりました。
昨日の夜、新宮から帰ってきました。だから、今回は、まだピチピチとりたてのお話です。

元々、その親戚の家は、明るい人達の集まりで、葬式も全然、湿っぽくなかったです。
おじさんも何度か入退院を繰り返していたけれど、最期は大好きなサンマのお寿司をたくさん食べ、おばさんに看取られてすーっと逝ったそうです。人徳ですね。

私も、好きなおじさんでした。11時間かかっても最期に顔を見られてよかった。
おだやかな死に顔でした。
その顔を見て、挨拶をし、家人にごはんをすすめられ、食べて、お喋りをして、バタバタと喪服に着替え、火葬場に行き、骨を拾い……一連の行事をこなしていたのでした。そして、夕方、大阪に帰るため、家人が出払った家からひとりで出ようと、ふと家の中をふり返った時、
「あれっ」と驚いてしまいました。
いつもおじさんが座っていた椅子のところ。
そこには、おじさんは、いませんでした。
当たり前です。
なのに、カーンッと胸を貫くような衝撃があったのです。

ほぼ10年前、1994年に、ある人に送った手紙の中でこんなことを書いていました。『震災と美術をめぐる20の話』(ギャラリー・フェニーチェ刊)の最後にも載せたので、細馬さんも読んだことがあるかもしれません。長いけれど、ちょっと引用してみます。

「人が死ぬということ、生きているものが死ぬということはどういうことなのか。生きている側が、どこに収めれば一番しっくりくるのか。
ずーっと考えていて、最終的に辿り着いたのは、視線です。“覗き込む”という視線を受けるものが住んでいるんだな。ということです。
ただの“見る”や“見えている”以上の“見る”。身を乗り出して、覗き“込む”もんなんだ。…
(中略)
死体、は見ようという意志がなければ見えない。
それは、美術作品とよく似ていると思いました。どちらも見る意志がなければ、ただの物体です。死体は、それ自体、生理的、社会的に強烈なインパクトがあって、より多くの人の視線を引きつけてしまうけれど、ある種の美術作品もまた、少数ですが、それを見ようとする人の視線をどんどん、果てしなく吸収していきます。のぞき込むようにして、ぐっと心を乗り出して見ています。すべての美術作品に当てはまることはないけれど、死体の持っている切迫感というか、脅迫力みたいなものと、ある種の美術作品の吸引力はシンクロするような気がします。そんな美術が気になります。」

うーん、暗いなあ。まあ、うちの両親の話だから必死で深刻にもなるか。
その深刻さはとりあえず、ほっといてくださいね。

でね、この時、私は、「死」というのは、「死体」の中にあると思っていたのですよ。
間違いなく。
「死体」という物体を見つめれば、すべてがそこに含まれているだろうと。
10年間、そう思い続けてきたわけですよ。

なのに!
昨日、私は、おじさんの死体そのものよりも、おじさんがいない椅子を見た時に、強い衝撃を受けたのです。

おじさんはいない。
不在である。

あっけにとられるほど、あからさまなこと。
彼は死んだのだ。
それに気づいて、呆然としてしまったのです。

。。。何を言っているのでしょうね。自分でもまだ収まりつかないのですが。

物を見ることがすべてを見ていることにはならない、ということ。
見えないことが、あからさまな物事を見せつけている、こともある。

ってことかな。たぶん。

「不在である」
って、何だろう? だけど、考えることも出来ない。だって「不在」なんだもん。

うーん、もしかしてアートも、「アート」が不在の時に最もあからさまな姿を見せつけているのかもしれない。
それは、「アート」の名前で呼ばれないだろうけれど。

あの家の椅子が「おじさんの不在」に固定されることがないように(おそらく明日には誰か別の人が座っているのだ)。
名付けられ、固定されたとたんに、変質してしまうもの。
そういうものが、この世にはあるんですよね。

たぶん、『図鑑天国』も、その「不在である」をどうやって会期中のみ保つか、という無茶なことをやりたいんでしょうね。自分がたてた企画だけど、おそらくそんな予感の中でやっているだろうと思います。あいまいだなあ。

いやはや、今回は、ずいぶん長くなってしまいました。
このあたりで、おやすみなさい。

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