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+ 山下里加
+ 小山田徹(こやまだとおる)

1961年生まれ。京都府在住。1984年、京都市立芸術大学在学中にパフォーマンス集団、ダムタイプを立ち上げる。
主に企画構成、舞台美術を担当。国内外での公演多数。
1992年、コミュニティセンター“Art-Scape”を運営。
1994〜96年、“Weekend Cafe”を運営。
1998年、コミュニティカフェ“Bazaar Cafe”の立ち上げに参加。
2000年、ダムタイプでの活動を休止。個人活動を開始。
2001年、共有アトリエ T-Room の立ち上げに参加。山口情報芸術センターのプレイベントとして、市民との協働プロジェクトを開始(現在も継続中)。
2002年、『Beautiful Life』展(水戸芸術館)出品。
2003年、『ガーデン/山荘の時間』展(アサヒビール大山崎山荘美術館)にて、連続ワークショップを開催。

3月4日(火)2:46AM from山下 猫道とものの道

 

小山田徹さま
山下里加です

先日は、『山本純子アップリケ in ダーチャ』展の設営をありがとうございました。
おかげさまで、『図鑑天国』に引き続き、とっても素敵な空間になりました!
今回の写真は、ダーチャの設営前と設営後の写真です。
うーん、写真では、あの“縄のれん”の魅力がイマイチ伝わらないなあ。
ダーチャは、これまでにもなかなか居心地のよい空間だと言われていたんですよ。
でも、あの“縄のれん”で仕切ることで、まったく別ものの、心地よい空間になるんですね。特に、無駄のように見える廊下部分があってこそ、人は自分の居場所を体感できるのだなぁ。
夕暮れにあの椅子に座って、“縄のれん”に斜めに陽光がさしているのを眺めているのは、至福の時です。

山本純子さんのアップリケは、本当に素敵です。
今、ダーチャでの設営中の写真を見ていたのですが、みんな笑っているんですよ。
にこにこ。
うれしそうにひとつずつアップリケを取り出しては、見て、にっこり。
展示があることを知らずに来た人たちも、本当に楽しそうに見入っていました。

その魅力はなんだろう、とちょっとだけ考えていたのですが、
やっぱり、彼女は私たちの見知っているものを作っているからだと思うのです。
まったく非日常の、とんでもない体験ではなくて、誰もが知っている台所用品や食べ物が、新しい形と色になって私たちの目の前に現れる。
驚きながら、自分自身の日常と重ねられる。
私たちは、純子さんのアップリケに魅了されながら、自分たちを発見しているのかもしれないです。

ところで、今回のテーマは、「ブリコラージュ」です。
最近、私たちの回りで大きな話題になっている語句ですが、実は私はまだ「ブリコラージュ」が分かっていない。
(※「ブリコラージュ」とは、人類学者のレヴィ=ストロースが『野生の思考』のなかで援用した概念。日本では「器用手仕事」と訳される。近代科学が目的のために素材を集め手段を講じるのに対して、未開社会では手近にある素材の断片から全体を作り出していく手法…らしい)

みんぱくの佐藤さんに
「カレーライスを作ろうと思って材料を買い集めるのではなく、冷蔵庫の残りもので作るお総菜のようなもの」
と言われて、なんとなく分かった気分になっているのですが、まだしっかりとした実感としてつかめていないんですよ。

それは、なぜかと思うに、「物を見る目」がないからかしらん。
というより、「物」にあんまり関心がない。

私の家は、物が少ない。
友達が来ると、「そっけない」と言われます。
女の子らしい(?)、ぬいぐるみも、小物も、いっさいない。
在るのは、ふてぶてしい巨大猫(本物)のみ。
といっても、吟味した物だけでまわりを固めたミニマルでお洒落な生活をしているわけでもない。
元々、物に対しての執着心が薄いんでしょうね。
よく物をこわすし、扱いが粗雑。
ところが、最近、気づいたのですが、物の扱いがぞんざいなように、私は人の扱いもぞんだいになってしまうことがあるのです。

和歌山の新宮のおばちゃんちには、無限に物があります。
物というより、「物の気」が充満している感じ。
他人が見れば、つまらない物ばかり。
なんだか、ひとつひとつの物につまらない思い出が詰まっていて、家全体が「ブリコラージュ」になっているのです。
そのひとつでも欠けたら、家全体が崩れてしまうのではないか、と異邦人である私は思ってしまうのですが、意外にしぶとくて、欠けたものの隙間には、新たな物や思い出や神話が入っていくのです。
去年は、おじさんが亡くなったのですが、私がセンチメンタルに「不在」感に浸っているうちに(細馬宏通さんとの「猫道交換日記 10月24日」にちょこっと書きました)、現場では「不在」はどんどん埋められ、飲み込まれて、新しい力になっているのです。
その活力、たくましさに、私はものすごく憧れます。

そして、おばちゃんは物を大事にするように、人を大事にします。
それは、とても自分勝手な愛し方で、最大限の努力でもてなしながら自分が眠くなったら人をほったらかして寝ちゃうんですよ。「あとは好きにご飯でも食べていって、欲しいものがあったら持って帰って」て。
その愛情の在り方は、家の中の「物の気」と通じあっているように思うのです。

「ブリコラージュ」を「物の集合体」として考えると、私自身になかなか引きつけられないのですが、おばちゃんちの膨大な物とそこで暮らす人と、不在を埋めていく生々しい力、時間の流れ方を思うと、「ブリコラージュ」に近づけるように思えるのです。

小山田さんは、「ブリコラージュ」をどう考えられていますか?
お返事お待ちしています。

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