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大阪<<>>BERLIN 変容する都市「ベルリン」検証
大阪市内で活発化しつつある芸術文化活動の現場を訪問、調査し、レポートを試みる。
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+ 篠原雅武

1975年神奈川県横浜市生まれ。京都大学総合人間学部卒業後、そのまま同大学院人間・環境学研究科へ。現在博士課程。

その1新世界アーツパーク(1)
——フェスティバルゲートにおける芸術文化活動について——

まえおき

昨年度(2002年度)、7月から2月にかけて、筆者は、大阪市内で活発化しつつある芸術文化活動の現場の幾つかを訪問し、その実態について調査し、レポートを試みたのだった。あれから数ヶ月経った。何が明らかになったのだろうか。さらに考察を深めて行くべきところがあるとしたら、それはどこなのだろうか。
自身、調査の以前に抱いていた大阪という都市のイメージは、今から思い返してみると、きわめてステレオタイプなものであった。実のところ、大阪はとても複雑なのだろう。筆者が見、レポートしたのは、その複雑な都市の文化の、ほんの一部である。
今年度も、この調査報告を継続する。昨年度と同様、あらかじめ方針はたてない。各回ごとに筆者が実地に調査し、それと関連する文献を読んで、漠然と感じたことを踏まえ、考えを述べるというスタイルを貫くことにしたい。
けれど、今回は一応、2003年度版の第一回目である。それゆえ、今年度、複数回(諸般の事情により、筆者[篠原]の担当回数は3回あるいは4回)記事を掲載するにあたって、その都度おそらく立ち戻ることになる基本的な問題意識について述べておきたい。そのあと今回の中心テーマであるフェスティバルゲートにおける芸術文化活動(「新世界アーツパーク事業」)について述べる。

1 文化と娯楽

(a)文化とは?
 昨年度は、【都市】を強調した。すなわち、都市という、出自を異にする者同士、集まり出会う場において、芸術文化活動はいかにして可能となるか、殊にそこでの人的ネットワークの形成に照準を定め、問うたのだった。もちろん、この問いについても、十分に答えは出せていない。今年度も引き続き、考えることになるだろう。
 けれども今年度は、【文化】について、より立ち入った考察を試みてみたい。昨年度も一応は、文化について、日常性‐非日常性、商業性‐非商業性といった概念規定に照らして、考えを述べようと試みたのだった。
しかしながら、そもそも文化とはなにか、文化という言葉でもって何が言われているのか、直截的に問うことはなかった。それについて考えるための基礎的な文献の読解が不十分であったことが、その主たる理由である。
また、先にも述べたが、筆者自身の関心が、都市、およびそこでの人間関係形成の形式的条件に向いていたため、そのネットワークにおいて実際につくりだされるものについては、はたして文化と呼んでよいのかと躊躇することもあって、あえて関心をそこから逸らしていたことも、その理由である。すなわち、そこでつくられているものを、文化と見なすか、それとも文化でない、なにか別のシロモノと見なすか、その弁別の基準が自分の中で定まっていなかったのである。おぼろげながらの基準はあったようにも思うのだが、明瞭に、意識化可能なものにまで精錬しようとしなかった。
 今年度は、この、作品あるいは製品としてつくられるものについて、考えてみたい。こうしてつくられるものが文化的と見なされるのに不可欠な条件があるとしたら、それはどういうものか、あるいは、そもそもそういう条件はあり得るのか。文化とはなにか、と問うことよりむしろ、文化の条件といったものについて考えてみたい。また、こういう問いの立て方の是非についても、考えてみる必要があるだろう。

(b)文化は娯楽ではない:H. アーレントの文化論
 H. アーレントの論考、「文化の危機——その社会的・政治的意義」(1961年刊行の『過去と未来の間』所収)は、上述の関心からして示唆的である。
 この論考では、文化の変容が、第二次世界大戦後の、経済的な高度成長期を経た諸国家において一般化した大衆社会(mass society)との関連で、論じられている。大衆社会をどう定義するのか、これ自体困難な作業なので省略する。ここで指摘しておきたいのは、彼女の次の見解である。
「大衆社会が欲するのは、文化ではない。娯楽(entertainment)である。そして娯楽産業が提供する売り物は、他の消費財と同様、社会によって消費される。娯楽に欠かせぬ製品は、社会の生命過程に役立つのだが、けれどもそれらは、パンや肉ほどにまで生命にとって不可欠というわけではない」(注1)
アーレントは、文化と娯楽を区別する。娯楽は、社会の生命過程の存続ために——労働過程の継続に不可欠な気晴らしの欲求を充足させるものとして——消費されるものとされる。すなわち娯楽は、「労働の、生物学的に条件づけられたサイクルのすき間を充足するもの」 (注2)として把握される。
けれども、アーレントの論において、娯楽は必ずしも否定されるべきものとはされない。すなわち続けてこう述べられる。「我々は皆、何かしらのかたちで、娯楽および遊興(amusement)を必要とする。なぜなら我々は皆、生命という壮大なサイクルに従属しているからだ。そして、我々の周りの人々を楽しませ興じさせるものと同じものが、我々をやはり楽しませ興じさせるということを否定するとしたら、それは、ひどい偽善であり、社会的な気取りである」 (注3)と。
娯楽が必要であることについては、非難されない。むしろ、気晴らしの効果が十分であり、それゆえ生命過程の存続に役立つものならば、娯楽は意義あるものとされる。ここでは、娯楽を否定する態度自体、偽善、あるいは社会的気取りとして非難されていることに、一応着目しておくべきであろう(こういった態度の延長には、娯楽と異なり、文化的と見なされるものを、それが娯楽でないことを理由に、特権的にあがめようとする俗物根性(philistinism)が生じることとなるだろう。アーレントは、こういう、娯楽について「いかなる価値をも引き出し得ぬことを理由に軽蔑しようとする俗物根性」が、文化にとって、娯楽以上に危険なものと述べている。このことについては、娯楽と別途に、いずれ考えてみたい)。
さてでは、娯楽が興隆する社会の状況において問題とすべきはどういうことか。それは、彼女によれば、文化と娯楽を隔てる区別の消滅である。すなわち、新奇さ、新鮮さ等、娯楽についての判断基準が、「文化的、芸術的な事物——我々が、それらのもとを離れた後にも世界において存続するとされる事物——を判断するための基準として使われるようになるにつれ、それはあきらかに、娯楽に対する必要性が文化的な世界を脅かしはじめたことを示唆するのである」(注4) と述べられる。新奇か否かは、あくまでも、娯楽の有効性を判断するのに相応しく設けられた基準である。こういった、娯楽特有の基準が、そもそも娯楽と異なるはずの文化の質を問い、判断するための基準として活用される——文化と娯楽の区別が薄れ、前者が後者に滲入される——アーレントが問題とするのはこのことである。

(c)娯楽ならざる文化とは?
 新鮮であり新奇であることが、娯楽として提供され消費される商品に、常に要求される。
 文化は、娯楽と異なる。にもかかわらず、娯楽に固有な評価基準が、文化に対して適用される。アーレントの、こういう問題提起を踏まえて考察を進めるとなると、次のように問うことが出来るだろう。すなわち、文化に固有な評価基準を、この、娯楽が拡大しつつあるとされる大衆社会の現状において、どうやって、何を根拠に導き出すのか、と。そして、消費という、娯楽のための商品との関わりかたとは別に、文化との、適切な関わりかたを見いだす必要がある。すなわちそれは、消費を介して、気晴らしという満足へと転化する、娯楽特有の関与とは異なる。
 文化が、気晴らしのための対象ではないとしたら、それは一体何のための対象なのか。さらに、こう問うことが出来るだろう。そもそも、今、文化の言葉で言い表される対象は、形成可能なのか。そういうものは、必要なのか。娯楽の蔓延は、現状の、文化が不要となりつつある事態を、暗に告げているのだろうか。

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