log osaka web magazine index

 倉敷に帰ってからも、土曜日の昼下がり、学校から帰ってご飯を食べながら見るのは、いつも松竹新喜劇だった。藤山寛美全盛の時代、案外涙もろい父親とふたり、泣いたり笑ったり、楽しかった。松竹新喜劇の中には、権力に翻弄されながらも懸命に生きている庶民の姿、どんなに裏切られても人を愛おしい、恋しいと思わずにはいられない、弱さも脆さも包み込む本当の意味での人間愛があった。そこには、遠く世阿弥から近松を経て受け継がれてきた上方の伝統が息づいていると、私は思っている。

 そう、大阪は、私にとっては住んだことはなくても、幼い頃の記憶に繋がる懐かしい憧れの土地だったのだ。

 受験の時や、大学になって見知らぬ土地でのはじめての独り暮しの慰めは落語のテープだった。大阪に越してきて、まず嬉しかったのは、落語に出てくる地名がすぐそこにあることだった。故桂枝雀さんの得意ネタで、私のお気に入りだったのが『八五郎坊主』で、そこに出てくる「ずく念寺」は下寺町にある。もちろん、そんなけったいな名前のお寺などないのだが、下寺町は今、私が住んでいる清水谷から歩いてすぐだ。人形浄瑠璃の、巡礼お弓の「どんどろ大師」も坂を下ったところにある。能の『弱法師』に出てくる四天王寺の「石の鳥居」も歩いて行ける。そして、大好きな地歌を生んだ街、大阪。生粋の大阪人は、大阪には文化は育たなくなったと嘆き、もはや諦め顔だが、私はまだまだ望みを捨てていない。

 思えば、なんのバックグラウンドも持たない能楽の世界に、役者としてではなく、ただ好きだからという理由だけで仕事をしようと飛び込んで、いろいろな人と出会った。そして、親戚さえもいない大阪に居を定めて15年。よくもまあ、どこの馬の骨ともわからぬ私を、皆さん、かくも可愛がってくださったものだ。私にはなんにもないが、このご縁こそが財産だと思っている。

 やはり、「T」で時々お会いする清元のおっしょさん。御歳80の細くて小さなお身体の、どこにそんなパワーがあるのか、ビシッと芯のある三味線を弾かれて、お弟子さんはもとよりファンも多い。お酒がめっぽう強くて、これまた恰好良いのだ。そのおっしょさんが、知り合って間もない頃、帰り際にふと、私にこうおっしゃった。「あんたはな、人が思うよりずっと気を遣うて生きてきたはずや。私にはわかるさかい、なにかあったらいつでも言うてくるんやで。」

 そんな大阪を私はこれからも離れることはできないだろうと思う。空が狭い、月が見えない、土が踏めない、などと文句を言いながら、やっぱり大阪なのだ。そして、私もいずれ「けったいな」女と呼ばれてみたいと思っている。

石淵文榮
←back [2/2]

HOME