文字だけではない、ずっと下に、写真がある……

 今やはっきりとこう断言していいでしょう。前回の、伊藤千枝さんへのインタビューの直後から、異変が起こりだした、と。あらゆる偶然が、そのときから結び合わさり出したのだ、と。

 異変が起こった以上、あらゆることは簡潔に伝達されなければなりません。できるだけ先を急ぐ必要があります。数えてみるとなんともう第4回めです。無駄な電気を使っている余裕などないのです。与えられた時間の、もうほとんど半分が過ぎ去ってしまった計算になります。30になってからというもの、時の流れが速く感じられます。こないだまで、あんなに暑かったのに、もう半袖ではすっかり寒い季節です。秋風に歩行て逃る蛍哉。一茶。この分では最終回を迎えるのもきっと、あっという間でしょう。
 最終回を、この連載はいったい、どのような状態でむかえるのだろうか。予定では「珍しいキノコ舞踊団」の大阪公演の準備が着々と進んでいるはずです。そう、この連載の最終回は、その公演の初日と文字どおり、リンクしているからです。たくさんの読者と会場で実際に出会っていることでしょう。いや、それとも、何者かに妨害され、餅つき大会に変更されるといった中止の憂き目にあっているのでしょうか。何しろ、始まりからして、特殊な企画でした。計画全体が私の妄想であったという最悪のオチすら、どこか透けて見えてきそうです。年を取るごとに何かと弱気になってくるような気がします。
 前回のインタビューが行われたのはそんなときでした。そして異変が起きたのはまさにその直後だったのです。魔法にかかったのだといわれても、否定することはできません。

 告白しますが、ぼくは舞台公演のプロデューサーではありませんし、その経験もありません。舞台公演には制作という役割があり、予算を計算し工面し、またアーティストがより良い環境でものを作れるようにしたり、ひろくその公演を知ってもらうためにチラシを作ったりチケットの予約態勢を整えたりといった実務を行ったりするのですが、その制作の経験もまったくありません。そういう人間が「キノコ」を大阪に呼ぼうというのです。いい度胸です。というか、まったく無茶な話ではありませんか。
 仮に「キノコ」が本当に、この連載の最終回と重なるようにして大阪に来るとして、大阪サイドにプロデューサーや制作を担当する人間がいないとしたら、大混乱に陥るでしょう。多くの負債をかかえ、ぼくは追放されてしまうにちがいない。追放されるのはしかたがありません。いつでも引っ越す準備はできています。しかし、当日まで稽古に励んできた「キノコ」のみなさんたちにいったい、なんとおわびしたらいいか。いや、もっとも迷惑をこうむるのは会場に足を運んでくれた観客のみなさんです。なかなかおしゃれな名前を冠したこのウェブマガジンの読者であり、また当日この場で観客にならんとしたみなさんには何ともおわびのしようもない。全10回にわたって、この企画の実現を追ってくださったみなさんに、餅をつけとだれが言えるでしょうか。

 ところで、この原稿は「書院WD-J100」という機種によって書かれています。これはワープロ専用機であり、インターネット等の機能は備わっていないものです。6年前に6万円で購入しました。新品の上、4割引であり、かなりお買い得でした。すでにその状態でお買い得でしたが、なお端数を切り捨てさせました。店員は少し怒っていたようでしたが、なんとか無事に購入することができました。むろんそれは当時の話であって、今では6万円あればノートパソコンでさえ中古であれば買えてしまうでしょう。
 餅つき大会になる可能性を秘めたこの企画を何もワープロのせいにしようとのいうではありません。そうではなく、時代にすっかり取り残されているということが言いたいのです。20世紀と21世紀の差を激烈に感じます。そう、6年前はたしかに20世紀、でした。それはさておき、第1回めの原稿を、時代に乗り遅れていることを痛感しつつ、ぼくはこの「書院WD-J100」で作りました。互換性はありますので、PC機で読めるようにデータを変換し、フロッピーを郵送しました。WEBの連載なのに、いささか不思議な作業行程です。

 それにしても、異変というのは、偶然というものは、まったくさりげなく訪れるものですね。それを今回、ぼくは痛切に感じさせられました。こんなことならもっと早く訪れてくれればよかったのに、などと思うほどであります。もちろんこちらの要望にこたえて偶然が訪れるはずなど、ありませんが……。ともかく、インタビューを収録したわずか2日後、1本の電話によって異変は顕著なものになったのでした。
 その電話は、例えばこんな具合でした。

「もしもし」
「はいはい」
「フクナガさんのお宅ですか」
「はい、そうですが」
「私、ナカガワというものですが、以前、会議のときにちょっとだけお会いしました……」
「はあはいはい。こんにちは」
「じつは、こんど、ナラさんに変わって、私がフクナガさんを担当することになりました」
「あれ、そうなんですか」
「ええ。よろしくお願いします」
「ナラさんやめちゃったんですか」
「いや、元気ですが、フクナガさんは私が担当することになりまして」
「はあ」
「フクナガさん、パソコンとかお持ちでないでしょう。それで毎回郵送されるのは大変だろうということで。ヤマシタさんとかアメノモリさんとか、ゲンカイさんとかイワブチさんとかほかのかたがたは皆さん、お持ちですから。そちらをナラさんが担当、ということで。私、近所ですから、直接フロッピーをいただけますから」
「なるほど」
「そういうわけで、第2回めの締め切り、明日ですけれど、どうですか」
「京都は寺町三条に、アートコンプレックス1928というのがありますね」
「え?」
「ナカガワさんはこのあいだ、以前はそのアートコンプレックス1928で働いていたと言われてましたでしょう」
「ああ、そうですけど。原稿の−」
「ぼくもそこ行ったりしますよ」
「……そうですか」
「最近ではそうだなあ、伊藤千枝さんのソロを見ましたね(「全地球人に告ぐ」 のインタビュー参照)。発条トさんとか、レニバッソさんとかの三本立てでした。あれはおもしろかったなあ」
「ありがとうございます。あの公演、私、手伝ってたんですよ」
「え?」
「全体を、ではないですけどね。でも、1928が立ちあげのときからいますから」
「!」
「そういうこともあって、フクナガさんの連載、たのしみにしているんですよ。私もぜひ、何かお手伝いしたいですし」
「!!」
「どうかなさったんですか。もしもし? これは鼻息ですか?」

 まるでだれかから、何かの意図をもって差し向けられたかのようではありませんか。プロデュースや制作などの舞台の現場をまったく知らない人間の前に、プロデュースや制作などの舞台の現場を知った人間が突如として現れたのですから、そう思っても無理はないでしょう。しかも、偶然にも、伊藤さんの公演にかかわっていたというのですからなおさらです。
 これが合図ででもあったかのように、1人、また1人と、この企画のもとに集まってきました。ナカサトさんもその1人です。彼女は以前、アップリンク(前号の特集参照)に勤務されていて、映画や演劇に詳しく、イベントの立ちあげにも深くかかわっていたそう(最近でいえば、アンダーグラウンドアーカイブスとか)。これで経験者はもう2人となり、いつのまにかぼくより多くなってしまいました(ヘンな言い方ですが……)。

 インタビューの後、ひと月たって、伊藤さんが大阪に来られる機会があり、ナカガワ、ナカサト、フクナガの3人で大阪を案内しました。案内した場所を、その順番どおりに、写真とともに、再現してみましょう(当然ですが、デジカメなど持っていませんので、写真はすべて、コンパクトカメラで撮影したものです。OLYMPUSでこれも6年前に購入しました。なぜか仙台で)。
 まず、graf。
 今回、伊藤さんとともに、grafを訪れたのは、前回のインタビュー時に伊藤さんの口から、大阪といえば、行ったことないんですがgrafってあるでしょう、と言われたからです。grafは本誌創刊号の特集に登場していますし、併設されているgmというギャラリーは、前々回の特集になっていた、草間彌生さんの展覧会を開催した場所のひとつでもあります。偶然のつながりがここにも……。何でも伊藤さんの周辺で、前からgrafがちょっとした話題になっていたそうです。
 ほんというと、いずれぼくから伊藤さんにはgrafのことを紹介しようと思っていたところでした。ですから、伊藤さんみずから言われたので、少しびっくりしました。たぶんぼくの口は開いていたと思います。それから閉じたと思います。いつまでも開けているわけにもいきませんから。何しろぼくはもう30代なのですから。そして、たがいに30代なのですから、ひとつ手間が省けたらもうけものです。そのぶん、次の作業に取り掛かることができます。なぜか〈現象〉という言葉が思い起こされます。
 gmで草間さんとgrafとのコラボレーション展を見、下の階のカフェでgrafのメンバー増地孝泰さんたちとおしゃべりをしました。増地さんは「キノコ」の『フリル(ミニ)Wild』を見たそうです。そして今日、伊藤さんはgrafの作品と接したわけで(カフェで使っていたテーブル、座っていた椅子も、むろん、grafの作品です)、なんだかこれっておもしろい出会いです。いや、このこと以上におもしろかったのは、grafが最初期に作った家具のひとつに椅子があって、「マッシュルームチェア」という名前がついている、ということでした。なんだか、今日が初めてじゃなく、もうそのころから、おたがいに出会っていたみたいです。
 お話しのあと、ショールームで家具の数々を見て、最後に1階の工場も見せていただきました。写真は、grafのビルのある通りです(右側の建物です。ちらっと工場部分が見えています)。

 次にフェスティバルゲート。
 不思議に思われるかもしれませんが、ここでぼくらディレクターズルーム担当者の会議は行われています。ぼくも最初、びっくりしました。正確に言いますと、今でもびっくりしています。いや、正直に告白しますと、驚きは現在もなおどんどん増しています。信じられないといっていいくらいです。月イチの会議でここに来るたびに、謎は深まるばかりです。くねくねしている上、ときおり悲鳴に似た歓声が聞こえてきたり、さらには轟音や歌声まで聞こえてくるなど、いろいろと不思議な場所です。
 伊藤さんも興味をもたれたらしく、熱心に記録されていました。それはデジカメのようでしたが……。
 そういえば、フェスティバルゲート、という名称もいささか謎めいていますね。最寄り駅の、動物園前、と合わせてみてみますとなおさら、です。何しろ、フェスティバル「ゲート」、動物園「前」、なのですから。「門」といい「前」といい、どちらも本体そのものにたどり着く直前を示した語ですね。これには何か、偶然以上のものがひそんでいます。ここに編集部があり会議が毎月行われているというのは偶然ではないのかもしれません。そもそも本誌の名称じたいからして、どこかにたどり着く前の、そこへたどり着くためのノート(日誌)という意味ではなかったでしょうか。
 北側はすぐ通天閣ですから、展望台にのぼることにします。時間もありませんので、ここで大阪を一望しようというわけです。

 最後に、築港赤レンガ倉庫とCASO。

 赤レンガ倉庫は大正時代の建築で、住友の倉庫だったものを大阪市が買い取ったのだそうです。現在「大阪市アーツアポリア事業」というプロジェクトが進行中です。赤レンガ倉庫を拠点として、アートに関する各種研究会が開催されています。つまり、開いています。しかし、写真のように、扉は閉まっていました。鍵がかかっています。そういえば柵もしてありました。おやすみなのでしょうか。
 他方、CASOは、おやすみのように見えますが、開いていました。ここもなぜか住友です。倉庫跡ですので、天井が高いのが特徴です。チラシを見ると「天井高5.8メートル」と書いてあります。チラシにはほかに「民間最大規模の現代美術のためのレンタルスペース」とも書いてあって、ここが赤レンガ倉庫との大きなちがいではないでしょうか。赤レンガ倉庫は「民間」ではないですし「レンタルスペース」でもないからです。それがどちらも「住友」で、しかもとなりどうしで、たがいに「アート」に関する活動をしているのは興味深い。交流はあるのでしょうか。気になるところですね。

 駆け足でしたが、これで伊藤さんとの大阪の街の見学はおしまいです。
 graf、CASO、築港赤レンガ倉庫のホームページは以下のとおりです(graf、CASO、築港赤レンガ倉庫の順です)。

http://www.graf-d3.com/
http://www.cwo.zaq.ne.jp/caso/
http://arts-center.gr.jp/

 さて、見学を終えた後、ぼくは企画書を書き始めました。
 本誌は大阪市の発行ですから、大阪市主催で公演が実施できたらいちばんいいでしょう。こないだCASOに行ったとき大阪港駅で「新世界アーツパーク通信」(0号)というチラシを手に入れたんですが、それによりますと大阪市は「大阪現代芸術祭」の一環として「新世界アーツパーク事業」というのを計画しているんだそうです。残念ながらいまいちこのチラシではわからないところが多く(いったい「大阪現代芸術祭」って何だろう?)、したがって推測を交えていいますと、「新世界アーツパーク事業」とは、音楽、映像、ダンスなどの様々なジャンルの団体が、あの不思議施設「フェスティバルゲート」を舞台に活動を展開するということらしい。チラシには10月12日から19日まで〈アジアコンテンポラリーダンスフェスティバル2002〉という企画がその「新世界アーツパーク事業」として大阪市主催で実施されるようです。日本からは砂連尾理+寺田みさこが参加するとある。見たい……。しかし、見れるんでしょうか。前売り3000円とあります。残念ながらお金が足りません。この連載でぼくは月に交通費込みで5万円もらっているのですが、その振り込みがあれば見れそうです。月末なので、それまでに売り切れないことを祈るのみです。それはともかく「大阪市アーツアポリア事業」といい「新世界アーツパーク事業」といい、「大阪現代芸術祭」といい、たくさんアート関連の企画があるなかに、本誌の存在も位置づけられるとすれば、その内容の充実を図る意味でも企画書は力を込めて書かなければならない。石淵さんが「ぶちの独り言」で書いていましたように(「ぶちの独り言」 参照)、大阪の街から伝統・現代問わず、劇場が撤退していっているのが現状としてあります。劇場の消滅は観客の消滅をも意味するでしょう。新しい建築物としての「劇場」の誕生を期待するのは、もう無理かもしれない。大阪圏の地価がとんでもない状況になっているのは周知のとおりです。しかし、どこかに新しく「劇場」を見いだすことはできるでしょう。建築物としての「劇場」はなくても「観客」は作ることができる。

 企画書は、ぼく1人でしたら書けっこないですけれど、今では経験者がいるから安心です。前述の中川みとのさんに専門的なところ(全体的なフォーマットとか予算とか)をお願いし、ぼくはもっぱら趣旨のようなものを書く担当です。
 まだ完成していませんから、企画書をここに掲載はできませんが「趣旨」に書いているのは、例えばこんなふうなことです。

 「キノコ」の大阪での公演では、伊藤さんたちに1週間ほど大阪に滞在してもらって、それから本公演が始まるというプランを実施したいということ。今日みたいな「駆け足」で、ではなく(「駆け足」にもそれなりの意義はありますけれども)。
 それにせっかくなら、これまでには実現不可能で、これからも難しいことができればいい。1週間かけて大阪の空気を吸った後で公演をしたら、きっと、そうしないで、えいやって東京から来てホイ本番というのとはちがうものになるだろうし。
 それから、公演の後に、「キノコ」が去った後の空間を伊藤さんにディレクションしてもらい、「公演の後」も何かがしばらく残るようにしたい。公演が終わって、ホイおしまいというのは、残念というか、もったいないといつも思うから。ダンス作品は終わったら何も残らないけれども、何もなかったわけではないでしょう。〈ダンスが終わった空間〉というものが残るでしょう。〈ダンスが終わった空間〉は見えないし目立たないけれど、余韻のように、それを感じられれば、きっとすてきです。アフタートークと称した、わかりきったことやあとで調べればわかることをわざわざアーティスト自身にしゃべらすみょうちきりんな時間ではなく、何かそれじたいが作品と言い得るような空間と時間を残してもらえたら、と。
 もう1つ、伊藤さんが全体をディレクションするということ。だから、今、ぼくが言ったことも、全然取り入れなくてかまわない。ぼくらは、アレドウデスカ、コレドウデスカと、どんどん言っていくけれども、何をおいても最終的には伊藤さんの世界を、「珍しいキノコ舞踊団」の世界をぼくら大阪圏の人間は、見たいわけだから。あるいは、大阪でしか見れない「キノコ」を見たいわけだから。

 具体的な舞台を立ちあげる現場をぼくは知りませんから、今、この連載を重ねながら、いちいち「うへぇー」と感心しつつ日々を送っています。できるだけ、書けることはここで随時、書きたいと思います(企画書もいずれ掲載しますね)。
 次回は、冒頭で触れた「制作」の仕事を「珍しいキノコ舞踊団」で最初期からされている大桶真さん(パブロフ)のインタビューを掲載しますが、おそるべきことに、ここでもまた、冒頭同様、「偶然」の結び付きがあきらかになったのでした。来月11月11日から読めるよう、テープ起こしをがんばります。



【追記】
さて、上の本文の中でも言及している珍しいキノコ舞踊団大阪初公演の実現のための「企画書」が作成されたのは、2002年8月下旬である。
正確にいうと、8月27日に、中川みとの氏(制作担当)によって書かれた「企画書」の骨組みが、私のもとに届けられた。これは事前の議論に基づいて〈企画意図〉〈会場候補〉〈公演概要〉等が端的に記されたもので、最後にキノコに関する資料が付されていた。
私の役割は、すでに骨組みが整えられ、構成された「企画書」の〈企画意図〉部分を、〈趣旨〉として、さらに膨らませるというものである。
完成した「企画書」は、log osaka web magazine編集室に提出された。大阪市の運営する本誌「log osaka web magazine」主催の事業にするためである。
今、読み返してみると、いかにも緊張して書いている様子がフシブシから伝わってくる。何しろ読者は大阪市の方であり、それは当然かもしれない。そのことも踏まえて読んでいただけるとありがたい。
この〈趣旨〉は8月30日に完成し、提出されたのは9月24日である。
時期としては、ちょうどこの『全地球人に告ぐ』4が掲載された頃にあたる。なお、4本文内ですでに触れた部分は省略した。


【趣旨】
『log osaka web magazine』(以下log)内の記事、『福永信の「全地球人に告ぐ」』は、ダンスカンパニー「珍しいキノコ舞踊団」の初の大阪公演を実現するというプロジェクトである。
また、著者自身記すように、文字本来の特徴であるその二次元性をそこでとどまらせずに、三次元空間(現実)へと貫くこと自体を主題としている。
紙媒体以上に、ウェブに掲載される文字たちは、無数の読者を獲得する可能性を備えている。『log』もまた、その特性を活かした紙面(画面)を制作している。記事は次々と書かれるが捨てられず、保管される。ホームページを訪れる新たな読者は、保管された古い記事を常に参照できる状態にある。読者はいつでも『log』の空間の中へ出入りできる。そのことによって、読者にとっての〈大阪〉像が構築されていくだろう。
しかし、それだけ自由度の高い媒体であっても、不可能なこともある。それは、直接的な読者どうしの出会い、である。
読者は『log』の空間を自由に飛び回るかもしれないが、身体的にはあくまでも個人的な指先の動きに過ぎない。パソコンの画面の前にただ一人でいるだけだ(その解決に、掲示板を設置すればいいという案もあるかもしれない。だが、現在さまざまなホームページで掲示板の閉鎖という問題が起こっているのも事実である。誹謗中傷などが原因だと思われる)。
本記事『福永信の「全地球人に告ぐ」』は、『log』という場所の特性を意識しながら書かれている。読者と『log』の制作サイドが実際に出会うことはできないのか。読者と読者がたがいに、生身の人間として出会うことは不可能なのか。これが本記事の主題の本質だといっていい。「珍しいキノコ舞踊団」の初の大阪公演を実現するというプロジェクトを掲げた理由もそこにある。
読者と『log』の制作サイドが実際に出会うこと、読者と読者がたがいに、生身の人間として出会うこと。著者は、この問題に具体的な提案で応えることが、あまたあるホームページと『log』との違いを明確にすると考えた。
それはひいては、大阪の真の姿を伝えることにもなろう。あまたあるホームページとの違いを打ち出せば、アイディア豊かな、創造性溢れる場所としての大阪をアピールすることができるだろう。このことはむろん、アピールにとどまらない。制作サイドと読者との出会いは、具体的な、読者と大阪との出会い、だからである。それは『log』の使命のひとつである。
具体的な提案として、まず最初に着目したのは、記事の冒頭にも触れていることだが、舞台芸術というジャンルである。
舞台芸術は、文学や映画、音楽と異なり、あらかじめ指定された時間にその場所へおもむかなければ、接することはできない(それはどこか約束して待ち合わせの場所に行くことに似ている)。いつでもどこからでもそこへ辿りつくことのできるウェブの世界とは正反対の世界といえよう。しかし、だからこそ、まったく反対だからこそ、ウェブがもっていない機能を舞台芸術はもっているとえる。舞台芸術は、作り手と受け手の出会いの場所だと(その作品の質にもそれは左右されるのは当然だが)とりあえずは言えるし、観客と観客が出会う場所であるとも言えるのだ。
なかでもダンスは、芝居以上にライブであることを重視する。一般的な戯曲というかたちをもたないダンスというジャンルは、再現することをそのジャンルじたいで拒んでいる。あくまで、ここで、今、身体を持った者どうしが「出会う」ことにかけているわけだ。
本記事は、ダンスカンパニー「珍しいキノコ舞踊団」の本公演が実現されるプロセスを、その内容としている。記事が全10回で完結するさいに本当に、大阪で、実現するというのがねらいだ。(現在の福永による[注]。本当は「全地球人に告ぐ」の連載は全9回だった。
結局、第9回まで気づくことはなかった。当然であるが、ここでは全く気づく気配すらない。わざわざ「全10回で」とことわっているところにまぬけな印象がある。りきみすぎかもしれない)
前述のとおり、公演の実現によって「読者」と「作り手」がじかに出会う「場所」を作り出したいからである。身体と身体が向き合うことで成立する公演の実現によって、それは可能となる。
「読者」とは『log』の「読者」のことであり同時に本記事の「読者」のことである。「作り手」とは「珍しいキノコ舞踊団」のことであると同時に、著者を含めた『log』を作っているわれわれのことである。「場所」とは舞台のことであると同時に、大阪という場所そのもののことである。ウェブマガジンという「場所」において、こういった関係者や読者とともに公演を作る試みは、他に例をみない。
「珍しいキノコ舞踊団」を取り上げたのは偶然からではない。その作品は常に「場所」を意識している。会場のなかで単純に自立してしまうのではなく、その会場の特性、そしてその会場のある場所の特性(大阪という場所の特性)を意識し、作品を作り上げるところに主宰の伊藤千枝氏自身の「特性」があるといえる。そして、そのことが伊藤氏をはじめ、「珍しいキノコ舞踊団」の評価を高めている理由となっている。
理由はほかにもある。「珍しいキノコ舞踊団」は、本年7月の世田谷パブリックシアターでの公演において全3回公演で約1800名もの動員を果たし、別紙を参照してもらえばわかるように(現在の福永による[注]。この「別紙」というのが上述の〈公演概要〉等にあたる)キャリアがあり評価が定まりつつあるなか、まだいちども大阪での公演がない。関東での活動が中心であり、したがって、大阪圏内の人々はまだ見ていない人も多いかと思われる。見るという経験を実際に可能にすることは、大阪において、新たな舞台芸術が誕生することにもつながるだろう。
また、「珍しいキノコ舞踊団」のダンスのさまざまな要素(背伸びしない日常感、キッチュさ、観客の裏をかくような面白さ、へこたれないユーモア)は、大阪文化にあい通じるところがある。大阪は古い建物が多く、人々はその地域社会とのつながりが強い。そこで、大阪とゆかりの深い若手のアーティストたちにも呼びかけ、アートディレクション等、積極的に参加してもらう。アーティストどうしの交流、出会いも図るというわけである。そういう貴重で美しい建造物やきさくできばつ、ユーモア溢れる大阪人たちと、東京発のダンスカンパニーとの共同制作は、「珍しいキノコ舞踊団」にとっても初めての出会いとなり、大阪でしか見れない、唯一で無二の舞台となるだろう。むろん、伊藤氏本人が大阪を気に入ってくれていることは見逃せない。(現在の福永による[注]。この段落は中川氏が企画書の骨組みで書いていた文章をほとんどそのまま使っている。こういう文は福永には書けない。とくに最後の、「むろん、伊藤氏本人が大阪を気に入ってくれていることは見逃せない」などは、ニクい一文である)
『log』の他の記事でもすでに触れられているが、近年、大阪での文化面の特徴として、劇場の閉鎖、という現象が上げられる。それは映画館がなくなることとは本質的に異なる。その「場所」がないということは確実にひとつの舞台がなくなるということだ。このままだと大阪という場所において、舞台芸術の発展はない。(現在の福永による[注]。言い切っている。だが、これくらいの意気込みが企画書を書かせているのだ、ということである)歴史的に舞台芸術の大きな役割を担ってきた大阪が起こすアクションとしても、本企画の実現が位置付けられる必要があるのではないか。
また、本企画の成功によって、大阪での公演が「珍しいキノコ舞踊団」の歴史に残ることは、公演終了後も、企画者である大阪市のアピールになり続ける。それもまた重要であろう。
これはウェブマガジンとしてのひとつの実験である。「出会い」をもとめて、その実験は開始される。「待ち合わせ」の「約束」がはたされるのかどうか、第1期『log』の、ひいては大阪という文化都市の真価が問われていると言えるのは間違いない。(現在の福永による[注]。400字詰め原稿用紙10枚たらずのこの〈趣旨〉文の中で「大阪」という文字は24回繰り返されている)

2003/7/18 記


【追記】その2
 上記本文に登場する築港赤レンガ倉庫については、本HP『log』内の2つの連載、篠原雅武氏の「都市文化研究報告」および徳山由香氏の「art plan」で詳細に取り上げられている。倉庫の内部写真も公開されているのでぜひ参照されたい。一方は漢字だけ、もう一方は英語のみのタイトルで対照的だが、1つの場所を2人の執筆者が書く(僕を含めれば3人だが)、その表現のちがいも興味深いと思う。
 たとえば篠原氏の「築港赤レンガ倉庫」文でおもしろいのは、地下鉄大阪港駅から赤レンガ倉庫までの、その道のりを描写しているところである。小学校や公園、団地といった周辺の環境が大型車輛用の道路によって分離され、また、天保山ハーバービレッジなどの遊興施設への流れも国道172号線で分離されていると指摘する。この「分離ム隔離の状態」は、かつての「物流の拠点」というイメージ(人や物が集積し、交流する)とまったく反対であるというわけである。
 他方、徳山氏の「築港赤レンガ倉庫」文(倉庫内部の写真はこちらが多い)で目をひいたのは、「spill over(溢れ出る)」という言葉である。あるいは、「文化を担う人」という言葉、「耕す人」という言葉である。何が溢れ出し、担い、耕すのかは、文じたいに実際にあたってもらうしかないが、多様化する文化事業を公的な機関が実践する(この『log』というHPの試みもそうであろう)とき、「公共性はどのように実現されるのか」という徳山氏の問いは、篠原氏の連載のテーマのひとつとも重なっており、ここにも偶然の「出会い」が見いだし得るのはおもしろい。
ところで、篠原氏はフェスティバルゲートについても触れている。すこし引用すると、この「都市型立体遊園地」は「『海底に沈んだ古代都市』をテーマとして(たとえば二階は水の都ヴェネチア、三階は1950年代のアメリカ西海岸(?)というように)、大きく分けて店舗部(物販と飲食)と、メリーゴーラウンドやジェットコースター等、アミューズメントパークにありがちな遊具施設の部分から成る」。
『こんにちは。』の企画を進行させていた去年、僕は毎月、打ち合わせのため、このフェスティバルゲートに通っていた。ジェットコースターにも乗ったが、海底に沈んだ古代都市だったなんて今、知った。

2003/12/15記

福永信
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