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2 CAS(Contemporary Art and Spirits)

(a)導入

 CASは、「民間主導のアート環境を育成すること」(*18)を志向し、2001年度、NPO法人として設立された。けれども、法人化されるより以前、1998年から既に、CASとして、原型となる活動は行われていた。だからNPO法人化は、その活動の継続の、途上に起こったことである、と言えるだろう。
 活動の、主たる拠点は、大阪市中央区内淡路町2丁目1番7号 都住創内淡路602号室である。設計事務所の一角が、展示スペース(そこは、展示だけではなくて、レクチャーも行われる。だから、多目的スペースと言った方が正確である)とされ、それと隣接して、談話可能なスペースがある。
 事務所自体は、ビルの六階にあり、階段での昇降は難儀である。なので、エレベーターを使用することになるだろう。また、ビルそのものは、グリッド状に区割された、オフィス街に位置する。類似したビルが集積するさなかにあり、地図を参照して探そうにも、困難である。
 地域との交流、といった観点からすると、赤レンガ倉庫の場合とは別様ではあるが、やはり隔離されたスペースである。CASの場合、外から見て、そこがアートの育成の場であると、明示するものは何も無い。いわば、匿名的である。だから、何かの用事でたまたま目に付き、ふらりと立ち寄ることはほぼあり得ない。わざわざ来るだけの意志のある者にのみ判別可能である。
 それではCASでは、どういったことが目指されるのか。
 その理念は、設立趣意書に明記されている。まず、「各地には多数の美術館が建設され、多くの美術に関するイベントが行われ、それに関する情報もあふれるとともに人々がアートと親しむ機会はますます増加している。」と、「アートと社会」を巡る現状につき、述べられる。なるほど確かに、美術館ではワークショップや、アーティストトークなど、作家と鑑賞者との間の壁を低くして、相互の接触機会を増やす試みが多々、催されるようになった。そのことで、観る側が作品と、より親しく関わり、交流が盛んになったと考えることも可能である。けれど、「親しむ機会」の増加をもって、「アートと社会の交流」の成功と見なしてもよいのだろうか。趣意書は続く。「現代アートは「観る人」「造る人」「見せる人」というそれらの人々の役割ごとでアートに対する関係が分断化されており、そのことでアートが持つ社会的機能を充分に果たしていないのではないだろうか」と。親しむ機会が増えた一方、上記三者の、それぞれアートと関わる者は、互いに分断されるという認識が示されるのである。つまり、親しむことと、分断は、同時に進行するのである。「美術館においてもワークショップやアーティストトーク等、「造る人」「見せる人」と「観る人」との距離を埋める試みは盛んに行われるようになっている。しかしそれらは館の教育プログラムの一環であり、アートが成立する現場を共有するという意味合いで行われているものではない。」分断の克服が志向されるのは、「アートが成立する現場を共有する」ことにおいてである。親しむ機会は、ここで言われる現場の共有とは異なる。美術館の外でも、アートと社会の相互交流と謳われ、アートイベントが催されているが、こちらもやはり、親しむ機会以上のものではない。親しむことが、「アートの育成」に繋がるかといったら、そうではない。親しむ機会が増加しても、上記の分断状況が克服されない限り、育成現場たりえないし、むしろその成立の阻害要因となりかねない。(筆者は、「親しむ機会」の増加をもって、アートと社会の分断状況の克服とみることは、ごまかしであり、問題のすり替えであり、隠蔽であると考える。先の額縁論を敷衍するなら、「親しむ機会」は、日常と芸術(非日常)とを分離する境界線をぼやかし、それら相互の曖昧な混淆状態を助長する。境界線の消滅と、分断の克服は一致せず、前者は後者の、偽った克服である。)CASにおいては、「現状の三者が分断されている関係を打開し、生き生きとしたアートの現場を育成することによって、アートがアートに関わる人達だけのものでなく、多くの人達が社会を内省する契機となることを目指す」とされる。またこのように育成が志向されるアートが、「公共性の高いアート」と明記されていること、あるいは「非営利によるボランティア活動を軸にした、あらゆる立場のアートを愛好する人たちで構成される活動の存在が必須(太字は筆者)」とされることにも、注意すべきである。先に筆者は、アクションプランの根底に、「芸術文化の公共性」、すなわち、「「公共性」とは、「大勢の人が見る・使う」「大勢の人が気軽に参加する」ことではない。人数は公共性の根拠とはなりえない。…(中略)…公共性とは、ある取り組みや催し、活動が本人やそのグループの楽しみをこえて、いかに多くの人の精神活動に影響を与えるかにある。より高い精神活動への影響は、アーティスト、観客の双方にある新しい発想の契機を与える」という考え方があると指摘した。CASにおいても、ただ気軽に楽しむ、つまりは日常生活の延長上にあるアートは志向されていない。「造る人」「見せる人」「観る人」の相互分断の克服が志向される場に関しても、「愛好する人」という、気軽でない意志のある人という、条件付きである。さらに、作品が創られていく場に関しても、「アートがアートに関わる人達だけのものでなく、多くの人達が社会を内省する契機となることを目指す(太字は筆者)」とある。つまり、「親しむ」という、予定調和的な、娯楽的なものではなく、関わる者に内省を強いる、清新な刺激の場と成ることが、目指されるのである。
こういった、CASの理念の根底には、たとえば代表である笹岡敬の、「アートは「社会とアート」という文脈で語られることが多いのですが、これはアートを社会に対しての対立構造に置く考え方です。私はアートとは社会という概念を構成する重要な要素であると認識しているのですが、日本に於いてはそのような構造に無いように思われます」(つまり、アートはそもそも非社会的とされる。社会に対峙しての非社会性、つまりは反社会的というよりは、社会と関係の無い、没社会的とみなされる。このような問題設定のそもそもの歪みが、上記三者の相互分断の遠因であると考えられなくもないのではなかろうか)といった、現代美術をめぐっての問題意識がある。この辺りをしっかりと検討したうえでないと、CASの活動状況は、表面的にしか見えてこないと考えられる。(続く)

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