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<花形能舞台>の人びと〜片山清司の場合〜

やっぱり絵本は絵も文章も易しいのがいいと思いますねえ

片山「例えば、『海士(あま)』のお話なんかは、自分でもわりに整理できたかなと思うんやけど、能の筋立てをそのまま追うと、30ページぐらいになるんですよ。それを18ページの中におさめるっていうのが、なかなか至難の技で(笑)」

しかも、わかりやすい言葉で書かないといけない

片山「と、いうことですよね。そういうところで、もう1回やっていきたいんですけど。ただ、いきなり出版には今回も漕ぎつけられないし…それも今月中に…」

な、なにを今月中になんですか!?

片山「文章(笑)」

何冊分です?

片山「3冊分…」

今月中って、こんな忙しいときに、あと1週間くらいしかないやないですか

片山「もう泣きそうな状況…作れるって決まったら急に締切りが来るし」

あ、泣き入ってても、今はちゃんとしゃべってもらいますよ!テープ回してまだ10分しかたってないし(笑)。それじゃ話を変えて(笑)。先代の銕之亟先生(=8世観世銕之亟/かんせ・てつのじょう/人間国宝)に師事なさったのは二十歳前の頃だと伺いましたが

片山「いや、16、7の頃かな。高校生だったんで」

どういう理由でやったんですか?

片山「漠然と…非常に幼稚な理由ですけれども、銕之亟家っていうのが、父も寿夫先生(観世寿夫/かんぜ・ひさお)に習いに行ってたし、自分とこの先生のおうちだっていう想いが一番底辺にあったと思うんですよ。それと、子供の頃に寿夫先生に‘おまえも大きくなったら東京に出て来いよな’って言われたこととかが頭の片隅に残ってて、そういう、言わば幼時体験と言うか、摺り込まれてるということはあったと思います。それと、『田村(たむら)』の能で初めて面をつけた時に、亡くなった先生(=先代銕之亟)が、わざわざ、京都に見に来てくださったんですよ、‘見に行くよ’っておっしゃって。それと、もう一つは、求めてた稽古っていうのがあって」

それはどういう稽古なんですか?

片山「ツトム・ヤマシタさんが日本へ帰って来られた時に、今で言うコラボレーションみたいなことをしたんだけれども、うちの父が出られへんからって、僕が急遽代りに出ることになったんです。東京でそれをやるので、父が、‘自分が行けないかもしれないから、静夫(しずお=後の銕之亟)さん、代りにいろいろ見てやってくれないか’っていうことで、最初は能の稽古やなくて、それを見てもらうとこから始まったんですよ」

内容はどんなんやったんですか?

片山舞衣(まいぎぬ)を着けて天女之舞(てんにょのまい)みたいなことを、“いろは歌”のような単調なリズムの中で舞い込んで、いろんな動きをして。で、銕之亟先生のことやから(笑)、最初は引いて見てらしたんですけど、だんだんのめり込んでくると必死になってこられて(笑)、基本的な<カマエ>から注意してくださった。もう自然と稽古になってったんですよ(笑)

うふふふ、必死になってはる銕之亟先生の姿が目に浮かぶ(笑)

片山「父もやっぱり習いに行ったほうがいいと思ってたみたいで。ただし、謡の稽古だけのつもりだったみたいなんだけれども」

父上のお許しが出ないまま銕之亟先生に直訴したっていう話を伺いましたけど?

片山「あ、それね、その時から、まただいぶ間が空いて。その間にも先生が(京都に舞台を)見に来てくださったりして、でも、結局、父も‘言うてやる言うてやる’ってそのままやったし、先生も、するともせんとも何もおっしゃらないし。そんな感じで宙ぶらりんやった時に、うちの同門の人の会が目黒であって、‘今言うてしまわんと、いつまでたっても稽古してくれはらへんのとちがうかな’と思って、自分で楽屋に‘先生、お稽古お願いします’って言いに行ったんです(笑)。そしたら怒られて(笑)」

ふふふふ(笑)

片山「(笑)父は‘頼んだから’と言ってましたけど、1年もたってるし、いつになったら(銕之亟先生に稽古を)始めていただけるのかなと思って」

早くお稽古してもらいたくてたまらなかったんですね

片山「父の稽古は、言葉数が少ないし、雰囲気の稽古やったんで、何をどういうふうに変えてったらいいのかよくわからない。子供ながらに、自分で考えてやらないといけない稽古やったんです。それにはあまりに自分の身体もできてないし、知識もないし。だから、‘こうしなさい!!’っていうふうに、強烈に教わるようなことが欲しかったんですよ。だから、先生に、‘骨格は肘を返しなさい’とか、‘<カマエ>っていうのはね、首を引いてここまでこうしないと線が駄目なんだよ’とか、一つずつ言われていったんが、求めてたことやったし、毎日、自分の中でわかってくることがあって、やっと、10代の骨格の稽古にとりかかっていったようなことやって。で、まあ、様々の争いありし後…」

(笑)様々の争いって。

片山「ま、それは本人だけの問題やし…。先生にしていただいた最初の稽古は、『巴(ともえ)』とか…わりと早くにやったのは『葵上(あおいのうえ)』。っていうのは、僕、『道成寺(どうじょうじ)』を披くのが、けっこう早かったんで、『道成寺』の前に<祈リ(いのり)>に慣れさせようというので、『葵上(あおいのうえ)』というのを演らしてもうたんです。そんな稽古からやっていって」

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