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上村「もともと山村流の創始の方は歌舞伎の役者であられたんですよね」

山村「そうです。初代山村友五郎といって、役者絵も残っているんですよ」

上村
「へえー、屋号は?先生はその名前の方は継いではいらっしゃらないのですか?」

山村「その名前は継いでないのよ。屋号は大坂屋だって」

上村「先生はとても若くして家元を継がれたのですよね」

山村「18歳で先代(母)が亡くなって、20代半ばになりました」

上村「物凄く重荷じゃなかったですか?その若さで大変なことですよね」

山村「もし、母が死んでなかったら、五代目宗家っていう人がいる訳じゃないですか?だから、僕は本当はこういうふうにはなってない・・・そう思うようにしたんです」

上村「そうですよね。ご健在でもまだまだお若い、活躍されている年齢ですよね」

山村「そう、だからそれを逆に考えて、もっとお気楽にしていたかもしれないということを前提に、20歳位の時から重荷には考えないようにしたんです」

上村「重荷に感じず責務を勤める・・・ちょっと、言ってやって下さいませ(弟子の純弥さんを見て)」

純弥「あれ(笑)」

山村「あら、そうなん?(笑)」

上村「(笑)、でも、もし、ですね、お母様が健在だったら先生はもちろん舞はされていると思いますが、今はどんなふうだったのでしょう?」

山村「きっと裏方でいたと思いますよ。僕は大学で舞台美術をしていたんですよ。宗家になることなんかは全然考えになくって、山村の家の足りないことは何だろう、とか色々考えて、照明とか制作面、そういうとこで自分のポジションを作っておこう、みたいな・・・17,8の子なりに考えていたんでしょうね」

上村「一族の中で自分が生きていくポジションですか・・・。私もこの名跡を襲名させて頂いて来年で10年ですが、この名前になる時には色々悩みましたね。前名の千次郎の名前でいた方が気が楽だろうなとも思いました。でも、うちの主人(片岡我當)がせっかくのチャンスなんだからと勧めてくれまして・・・。幹部になってすぐは、今までみたいな芝居の仕方ではあかん、写真も大きくなったのだから、幹部らしい芝居をしないとあかんと人からは言われました。で、目線をかえたり、分からないなりに工夫をしたのですが、今度は変に目立とうとしているとか・・・しんどかったですね」

山村「どういう仕事でもそうやろうけど、名前とか、またその名前とその場にあったバランスのものをだすというのは本当に難しいですよね」

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