転身 → アートマネージャー
松本さんがアートマネジメントの世界に入られたきっかけを聞かせてください。
もともとは全国紙の新聞記者として20年働いていました。大学時代からバンド活動をしていて、そのマネージャーもしていたので、ライヴハウスを探したり、資金調達をしたりといったことが好きだったんです。20代で地方支局に赴任した時に、その自治体に自治省から出向していた小暮宣雄さん(現在の日本アートマネジメント学会関西部会長、京都橘女子大学助教授、文化政策)と出会ったんです。小暮さんと長く交流しているうち、アートや芝居、音楽といった世界の仲間がどんどん増えていって、アートマネジメントの世界に興味を持つようになった。自分もこの仕事をしたいなと思い、いつか機会があれば、と文化事業への配属を希望していたんです。つまり、企業人だったけど、アーツ好きな自分がずっといた。
記者の仕事は、社会部だったので、いろいろと書きましたし、書くことで得られる充足感はありました。でも39歳でデスクになってからは、書く側から受け手側になって、5年間くらい書かなくなり、充足感を得られなくなった。当時、相当悩んでいて、小暮さんから会社と違うもう一つの自分があった方がいいよと助言され、文化経済学会や日本アートマネジメント学会を紹介してもらった。
そうこうするうちに、新聞社の関連会社で、松下関連のホールやシアターを経営する会社で働かないかという話があり、2000年12月1日付けで出向することになったんです。そして忘れもしない同月19日、小暮さんがOBPまで訪ねてきてくださり、2人でビル街を歩き回った。バブルの後で、使われていないスペースが目立ち、がらんとした「仕事のための街」という印象でした。「このスペースを活かして、何かおもしろいアーツができるんじゃないか」というのが、2人の一致した意見だったんです。それで、いろんな人に会い、話し合った結果、2001年4月頃にOBPアーツの骨子が固まりました。
実際にアートマネジメントの仕事を始めて、気づいたことなど、ありますか?
アートマネジメントという概念はまだはっきり固まっていないと思うのです。狭義では、運営とか、補助金の取り方とかといった実務的なことだと思いますが、広義では、「社会との関わりである」ということなんですよね。僕も最初はマネジメントという言葉から連想されるような、管理、経営や、効率よくやっていく、といったことかな、と思っていたのですが、むしろ、英語でいうmanage
to do という「なんとかしてやっていく」といったことだと思うようになりました。それぞれの環境でできることを、何とかして探してアーツを実現していくということ。
それと、小暮宣雄さんのおっしゃるアートマネージャーの10条件を知って、3番目の「アート以外の仕事をしたことがある人」という項目に、勇気づけられました。僕でもできるんだ、って。そう思って一生懸命やってたら、「あ、コイツ本気でやっとんな」って、思ってもらえるから、みんな応援してくれるし、協力してくれる。
アートマネジメントって、自分が社会の中でどのように生きていきたいと思うのか、生き方を問われる行為なんですよね。アーツって、そういうコワイものです。
だって、人間が平等なのは、死と宗教とアーツの前だと思うんです。アーツの前だとみんな平等で純粋になれますよね。そういうオルタナティヴな自分を持っていることが、きっと大事。アートマネージャーの役割の一つに記録するという行為がある。つまり「書く」こと。もう記者じゃないから。ただの松本茂章として、雑誌などにアーツのこと書いています。
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