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小さい頃から文楽の世界に入ろうと思っていたのですか?
「全然。舞台は見に行ってましたが、仕事としては意識していなかった。なにより『お父さんのお仕事は?』と聞かれても、どう説明していいのか分からなかったぐらいですから。人形を持って、えーと、えーと…」
(笑)難しいですよね、子供には。
「劇場に行っても、客席から本番の舞台を見ているか、その合間の楽屋しか知らないんです。本当に働いている姿は見ていない」
客席からは、お客さんの目でしか見られないんですね。
「本当に、これが親父のやっている仕事だと意識したのは、黒子として手伝いに行き始めてから徐々にですね」
黒子で手伝いに入られたのは、いつ頃でしょうか?
「最初に行ったのは、13才ですね。中学2年生になってすぐに手伝いにいったんです」
中学生で!?
「その頃、文楽はかなりの人手不足だったんですよ。今、人形遣いは43人いますが、当時は27人しかいなかったんです」
27人! 3人遣いですから、7人の登場人物でギリギリ…。
「人形を操る人だけでなく、小道具をわたしたり、舞台の幕を開けたりする人もいるんです。その頃は、淡路(淡路島)の人形浄瑠璃の座から手伝いに来てくれていた人もいました。淡路にはたくさんの人形浄瑠璃の座がありましたから」
そうですね、人形浄瑠璃は日本各地にあった大衆娯楽だったんですよね。
「といっても、まあ、文楽座もお年寄りが多かったですし、10年近く若い入門者もなかったようです。入ってもすぐ辞めたり」
当時、文楽はどんな状況だったのですか?
「昭和24年に文楽座はふたつに分かれたのですが、昭和38年に再び合流し、今の財団法人文楽協会が発足したんです。これは、国と大阪府、大阪市、日本放送協会の助成金で運営されている法人で、大夫、三味線、人形遣いは、協会に所属する技芸員になるんです。昭和41年に東京の国立劇場が開場したし、これから文楽を盛り上げていこうとはなっていた。だけど、それまではかなり危機的な状況で後継者を育てるどころじゃない、座員たちは年をとっていく、何とかしなくては、と思いながらも打つ手がなく…というようなことだったようです」
お客さんは?
「少なかったですねぇ。道頓堀の文楽座(昭和38年に朝日座と改称)でやっていたのですが、映画や新劇などの新しい娯楽が出てきて、どんどんお客さんが減っていました。若いお客さんがいないんですよ。地味な服を着たお年寄りばかりで、赤い服を着た若い女性などはものすごく目立ちましたから。2階席もふくめて1200席ぐらいあったので、余計に空席が目に付くんですよ。日によっては、出演者の方が多いぐらい。まあ、一番、しんどい時代だったようですね」
その大変な時期に、文楽に足を踏み入れたんですね。
「呑気な中学生でしたからね、親の苦労は分かっていなかった。それで、たまたま昭和41年5月に『絵本太功記』の通し狂言をすることになったんです。かなり大がかりな外題で、通しでやるのは明治以来、約60年ぶりだったんです。これの最後の大徳寺の焼香の場面に鎧人形がたくさん出てくるんですよ。つめ人形(一人遣いの人形)も入れると10体ぐらい出てくる。とうてい27人では出来ない。だれか手伝いを呼ぼう、となったんです。といっても特殊な仕事ですから、関係者のツテをたどって人を探していたんですね。で、親父から『学校が終わったら手伝いに来ないか』と言われたんです」
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| 昭和41年『絵本太功記』の大徳寺焼香の場面。 |
お父さんは、後を継いでほしいと思っていらっしゃったのでしょうか?
「口では言いませんが、まあ、これで文楽を好きになってくれたら…という思いもあったかもしれませんね。『絵本太功記』には、僕をふくめた中学生5人と高校生1人が手伝いに来ていました。学生服の上に黒子を着て、道具をわたしたり、幕引きをしたり。みんな優しいんですよ。辞められたら困るから(笑)」
もう猫の手も状態だったんですね。
「左遣いもやりましたよ。ちょっとだけ足を持ったり(足遣い)もしました」
えー!!人形を遣っていたのですか? 初めてでも出来るものですか?
「止まっていたり、動きの少ない場面ですよ。鎧人形は足の方が重要なので、そっちは本職の人形遣いがやって、僕は左を持ってじーっとしていて。いざ、複雑な場面になると別の人が来て変わるんです。そのぐらい人が足りなかった」
なんだか早変わりマジックのようですね。
「お客さんは、まさか中学2年生がやっているとは思っていなかったでしょうね(笑)」
そりゃそうです。そこから文楽をやっていこうと?
「ちゃんと入門を決めたのは、中学3年になってから。『絵本太功記』が終わった後も、手伝いに行ってたんです。吉田玉女くんも同じように手伝いに借り出されて、文楽の世界に入ってしまった仲間です。先輩達は優しかったですよ。足遣いの兄ちゃんは特に。下が入ってこないと、いつまで自分は上にいけませんから(笑)」
お父さんからは、何か助言があったり?
「何も言いません。だけど、これはなかなか面白い仕事だなって思い始めたんです。楽屋では、冗談ばかり言っている兄ちゃんが、真剣な顔をしてやっているんですよ。舞台の裏から見ると、客席から見えていなかった部分に気づくんです。ああ、こういう人達に支えられながら、文楽は成り立っているんだって。大道具、小道具、照明…。人形の頭や仕掛けとか、床山(人形の髪を結う)にも興味があって、その仕事場にしょっちゅう入り浸っていました」
漫画好き、模型好き少年には、たまりませんよね。
「まあ、そんなことで毎日、学校帰りに劇場に通うようになったんです。日曜日は朝から行ってました。船底の下の方にいて、後見(道具を渡したり、衣裳などの手伝いをする人)になっていると、一番、目の近くにあるのが人形の足でしょう。それを見ていると、『ああ、こんな風に足が遣えたら面白いだろうな』って思い始めたんです」
じわじわ文楽にはまってきたんですね。
「お正月に本公演が終わったら、若い人達が中心になってやる勉強会があるんです。その時、忠臣蔵の3人侍で主遣いをやらせてもらったんです。くりくりの坊主頭で人形を持って、今の簑助師匠や先輩方が左遣い、足遣いにまわってくれて」
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| 昭和43年正月の若手の勉強会。 |
え〜!! ゴージャス!
「稽古は自分なりにやっていたけれど、遣い方なんてまだまだですよ、もちろん。そしたら先輩達が『どや、面白いやろ』って、そそのかすんですよね」
周りからもじわじわ〜っと(笑)。
「その頃から、だんだんと『これがうちの親父がやっている“仕事”なんだ』と気づいたんですね。だから、今入ってきている若い人達に比べると入門の動機が弱いんですよ。彼らは『○○さんの人形を見てすごいと思った』とか、『○○さんの浄瑠璃にしびれて』という熱い想いがあるのですが、僕はなんとなくじわ〜っと1年間やっているうちに自分に向いているなと思い始めたんです」
理想的な出会いのように思います。
そうこうするうちに、『進学しないで人形遣いをやります』と親父に言ったら、弟弟子だった簑助のところへ行け(弟子入り)と言われたんです」 |
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