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平成15年4月5日、国立文楽劇場の4月公演で吉田簑太郎は、三世桐竹勘十郎を襲名した。襲名披露狂言の演目は『絵本太功記』。昭和41年に中学2年生だった彼が、手伝いに借り出された演目だ。それから37年目、新・勘十郎は、見事に主役の武智光秀を務めた。
人形遣いは、足遣い十年、左遣い一五年と言われるほど、長い修業を要する仕事だ。しかも、漫然と時を過ごしているだけでは何も残らない。自身を磨くために勘十郎は何をし、何を目指してきたのか。修業時代から勘十郎襲名までを聞く。

前回は、足遣いまでのお話をうかがいました。それから、ずっとコツコツと努力と修業をしていたのですか?

「その当時は、名人級の人形遣いがいっぱいいて、その下、僕らの先輩は、なかなかいい役が回ってこなかった。この仕事に定年はありませんから自分より実力のある人が上にいる間は、なかなかのびていけない。修業を重ねても見せる場がないんです。僕は、『これは自分で場を作っていかないといけないな』とワリと早いうちに察知したんですよ。だから、学校でも公民館でも自分で仕事を作って、人形を持って公演をしていったんです。若い大夫や三味線に一緒にやってくれるように頼んでね。そこで自分にはまだ少しだけ早いような難しい役をやらしてもらったんです」

そんな風に外に飛び出していくことに対して周囲は?

「うちの師匠は、そういうことには寛大で、自信があるんやったらやればいいとおっしゃってくれた。止められたことはありません。その代わり、やる限りはちゃんとしたものをしろと」

寛大な方なんですね。稽古はつけてくれたのですか?
昭和59年。『一谷 軍記(いちのたにふたばぐんき)』の敦盛役。道頓堀にあった朝日座の最後の公演で簑助師匠の代役をつとめる。

「それは特になかったですね。今まで自分が身につけてきたものでやればいい。失敗しても自分の責任だと。師匠だ、弟子だといっても、言葉で教えられるもんじゃない。見て、盗めと。他の師匠の芸も見て、自分のものにしていけと。時々、僕がやる舞台を見に来てくれましたよ。何も言わないことが多いのですが、ひと言、ふた言、残してくれる時があって、それはやっぱり厳しいです。そうやって常に人形を触っている状態を作っていたんです」

伝統芸能の世界は、何かと制約があるようなイメージですが、本人のやる気次第なんですね。

「その代わり、本舞台(国立文楽劇場、国立劇場での公演)は、きっちりつとめないとダメですよ。本舞台で無様な芝居をしたら、『外でいいかっこして、本舞台があれか』と言われてしまう。礼儀も挨拶もきっちりして、その上で外での自由だから。そこを勘違いしないように心がけないと」

本舞台のための武者修行のようなものだったんですね。

「見るとやるとは大違いですから。1回その役(の主遣い)をやると“怖いところ”が分かる。そうすると、本公演で師匠の左遣いにつく時にすごく役立つんです。それを師匠も分かってくれたと思う。ただあの舞台出た、テレビに出たと喜んでいるようじゃダメで、何か、どこかに本舞台のための土産を持って帰れないかと思っていました。クラシック音楽や他のジャンルのものと競演するのも、何かヒントがないかと思うからなんです」

異ジャンルとの交流はいかがですか?

「それなりには出来るのですが、やはり人形を最大限に生かせるのは、義太夫節ですよね。他のジャンルのものと遣るたびに、義太夫はよく出来ているな、と思いますから」

3人遣いの人形と義太夫節は、本当に完成された芸術だと思います。
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