「言葉を用いないこと」の “可能性”についてお聞かせください。
ある程度の特殊な生活習慣を除けば世界中でどこでも通用すること。マイムの作品って、つくった人の性格が色濃く出るので、フェスティバルなんかで出会う各国のマイムの人とのたどたどしい英語での、言葉を交わしてのコミュニケーションよりその人の作品をみる方が手っ取り早くその人がつかめる...なんてこともありますからね。
では、観客にとっての「言葉を用いないこと」の可能性は?
そうですね、「言葉を用いない」...台詞芝居とマイムで比較すると、台詞芝居などで言葉を使うことによってお客さんは自分の想像力にまかせる幅が狭くなり、ひとつの方向へ導かれる感じが強くなるでしょう。物語を忠実に伝えてゆくためには「言葉」は必要だと思います。
一方、マイムは言葉を使わないことでみる側の想像力にまかせて、どんどん広げてゆくことができます。お客さん一人一人感じ方、受け取り方は微妙に違ってくると思います。もちろん大幅に脱線しないように演じる側は気をつけていますが、ジグソーパズルの最後の1ピースをお客さん自身で見つけてもらうような...知らず知らずのうちにお客さんはそんな楽しみ方をしているのかもしれません。ある意味、言葉を使わないことで「お客さん参加型」になってるのでしょう。
マイムにおける“物語”と“イメージ”について、お聞かせください。
物語的な作品と、シチュエーションを重視した作品とではつくりかたも全て違いますね。物語的なものの時には下手な作文のようにのっぺり事実関係を追うようなことを避けようと考えます。イメージ的な作品はアタマを空っぽにして動きを繰り返して後から構成を考えたり...。ま、そのときの気分とかに左右されることが多いですね。
では、“具象性”と“抽象性”については?
つくるときは絶対に具体的なテーマ、具体的なイメージから入ります。最終的に出来上がったものが、それを受け取る人によれば「抽象的」になることはあるかもしれませんが、つくり手が「なんとなく」...と、無責任なつくりかたはできないと思っています。
具体的なんだけど抽象的に“角”を取るような演出も考えています。“角”を取ることによって伝えたいイメージや雰囲気などが、浮き彫りにされることがあるので...。
なんか料理みたいなもんなんですよ。食べる人は抽象的に「海の香り...」なんていっても、その裏には隠し味で昆布ダシを使ってました、なんていう具体的な作業があったりして。たまに「これは隠し味に○○をいれましたね!」なんて感じのマニアックなお客さんや関係者もいたりするのですが...。(笑)
“娯楽性”と“芸術性”については?
娯楽です。100パーセント娯楽。芸術も娯楽。美術館に行くのは勉強ではなく、娯楽として時間とお金を払っていきますし。娯楽性と芸術性は両極にある言葉だとは思っていません。共存しているのかな〜?お客さんに芸術だと思ってもらうのは構わないんですが、自分では言わないでしょうね。
立て続けにすみません...最後にマイムの“現代性”というと?
そうですね、あんまり考えたことはないのですが、マイムにおいて大切な「想像力」の欠如が極端な話、現代の大きな問題だと思います。
想像して創造することは楽しいよ...って。大それたことはできませんが、それが少しでも伝えられたらいいな、なんて思ってます。
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