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松竹をお辞めになった後、ATG(※註)で作られてきた作品は、我々の世代に大変な影響を与えた作品群だったんですが、当時の監督ご自身のお気持としては作りたいものが作れたという喜びは、大きかったんでしょうか。

確かにそのとおりです。ただ私は、松竹時代でも、自分の意に反して作った映画はありません。なかなか思うようにはいきませんでしたが、最後には、私が作りたい映画を松竹がオーケーしてくれました。それは独立してからも、一環してると思いますが、ただ当時の映画界はきわめてパターン化されていて、政治的なテーマの映画というだけで、不可能でした。左翼系の組織が企画し、製作する政治的なスローガンの映画以外は、ほとんどありませんでした。
また、これまでの映画における男女関係を踏み込んで、追及するような内容の作品も、拒絶されましたから、私自身にしても、そうした既成の映画界から、まったく自由であったわけではありません。

ATGに関して、大島渚さんがその後総括をされて、ATGを全面否定するような発言をされたことがありますよね。ATGで作るのは実は作家が半分、ATGが半分出資するということで、結果的に、作家に大変な負債、負担を強いる機構であると。作家は、そりゃ作りたいから、作るけれども、結果的には後で負担が残る。そういうようなATGのやりかたはおかしい、あれは作家を蝕むものであった、というようなことをいわれたと思うんですが。

私は、ATGにそれほど夢を抱いていませんでしたから、裏切られたという思いもありませんでしたね。
その理由は、二つあります。ひとつは、当時はメジャーの映画会社が全国の劇場を系列化し、それに大量生産された作品を自動的に流し、上映していました。松竹を離れて独立プロを作り、映画を製作しても、封切る劇場がないのが現実です。そうした状況のなかで、ATGが作られ、独立プロの映画が上映可能になったのですから、喜ぶべきことだったのでしょう。しかしATGといっても、東宝系の系列化にありましたし、当時の社長をされていた井関(種雄)さん自身も、三和興行という東宝系列の劇場を新宿に持っておられた。
はじめて井関さんにお目にかかったときに、言われましたね。自分がATGを引き受けたのは、ボーリング場の経営によって高収益が上がっているからですと。それはボーリングの収益がなくなれば、ATGをやめますという意味にも取れる発言でした。ATGは長く続かない、そんな予感がしたことを覚えていますが、それが間もなく現実となりました。独立プロとATGが、500万ずつ出しあって共同製作をする。しかし赤字になった場合でも、ATGは負わない。その代わり7年後には、映画の権利は独立プロのものとなるという、当初の原則が変えられ、権利は最後まで半分ずつ分け合うことになってしまいました。それはブームであったボーリング場に、陰りが見えてきたからでしょう。
いまひとつは、共同製作する作品の、企画の決め方です。ATGは幾人かの映画批評家に依頼して、独立プロ側が提出するシナリオを読んでもらい、その意見によって製作するかどうか、判断したのです。そういう仕組みに、私は抵抗を感じたのです。映画批評家は完成した作品に対しては、自由に批評を加えることができますが、それ以前のシナリオの段階で、その映画を判断するのは、危険です。どのような映画を作るのか、それこそが映画監督の自由であって、それをシナリオによって審査し、規制してしまうのは、本来あるべき姿ではありません。
『さらば夏の光』から『エロス+虐殺』までは、ATGと合作せずに、私側だけで作り、ATGには配給だけお願いをした理由です。もっとも、『エロス+虐殺』のシナリオを提出しても、ATG側が同意しなかったでしょう(笑)。その意味ではATG映画といっても、思想的な基盤があったわけではなく、それぞれの作品がそれぞれの運命を担って、作られていたのです。

我々観客としては、やはりATGという看板に、時代を感じていた気がするんですが…。

当時の観客には、そう思われたとすれば、60年代終わりの時代が反映していたからでしょう。すくなくとも私自身は、すでにATG以前に、松竹時代に6本、独立後に5本の映画を作っていまして、映画監督としてのありようを、私なりに解っていましたから、その延長上でつくりしかありません。それがATG映画の時代というイメージが、その渦中にありながら、希薄なのかもしれませんね。 

話は変わりますが、全国各地にシネコンができた結果、地元の劇場がどんどんつぶれて、シネコンだけになっています。シネコンでかかる映画が、必ずしも観たい作品、ぜひ観てほしい良質の映画とは重なりません。そして、資本の論理によって利潤を追求するシネコンは、その資本が撤退すると、シネコンもなくなってしまいます。そうすると地元には、なにも残らない。そういう危機感から、ここ数年の間に、全国の各地域で、新しい自主的な上映活動をしてゆこうという「コミュニティシネマ」の機運が、非常に高まっています。我々も、そうした「コミュニティシネマ」のひとつとして上映活動をしてゆこうとしているのですが、そういった動きに関しては、どのようにお考えでしょうか?

おっしゃるとおりです。おそらくその地域の人たちと文化的なコミュニケーションをするという意識はないでしょうね。シネコンは映画興行による利益があがる限りはつづけるでしょうが、そうでなくなったときには、撤退する。それが資本の論理です。そのあとは、文化の砂漠地帯が出現するでしょう。たとえ現在シネコンがあっても、その地域のコミュニティが、映画を上映している独立館を、いまから支えていないかぎり、シネコンが撤退してから始めようとしても遅いのです。
東京でもそうですが、そうしたシネコンにどう対処してゆくのか。疎外されて孤立無援であっても、文化としての映画に志をもっておられる独立館、景山さんのように、かつての日本映画をよく知っておられる方たちを、地域社会が積極的に支えてゆくことが大事です。それは一方的に中央から流されてくるコマーシャル・ベースの作品を、地域のコミュニティが見返すといっても良いのかもしれません。今回の上映キャンペーンも、映画を作る側の私たちも地域のコミュニティと直接ふれあう場をもち、孤立無縁な独立館の状況を、すこしでも打破できればという気持からです。


いま、地方で、町のなかに空き家がいっぱいあるという空洞化現象がおこってます。そんな空き家や空き家同然になっている場所を、地元の商店街が買いとるかたちで、映画上映をおこなえるような空間にできたら、と思ってるんです。こうした動きは、たとえば高崎映画祭のスタッフたちが中心になって、銀行が撤退した場所で、新しい映画館を今年中に造るらしい。そうした動きが、今後も各地でおこってくると思います。そのときは、ぜひご協力をお願いします。
もう一度『鏡の女たち』の話にもどるんですが、14年ぶりでしかも原爆をテーマにしたこの作品は、いま、各地で上映活動がはじまってます。年内に、ビデオ・DVDも発売されますが、これからご覧になります皆様に、ご紹介していただけませんか。


私が原爆をテーマにした映画を作ると表明したとき、映画のメディアも、私の親しい友人たちも、なぜ半世紀以上もたったいま、原爆なのかと、疑問をもつ人が多かった。半世紀以上が過ぎたいま、なぜ改めて原爆を問いただすのか。もちろんそれは原爆、あるいは戦争に反対するためではあるのですが、それと同時に私は映画監督ですから、原爆を映画として描くことがどういうことであるのか、それを問いかけつづけながら、迷いに迷った結果、50年かかってしまったのです。
このように私が迷った理由は、原爆を映画によって語り、それを描く権利をもっているのは、犠牲になった人びと、死者だけだと思えてならなかったからです。あの時、広島、あるいは長崎に、私はいたわけではありません。そこにいなかった人間が、原爆を想像し、イメージだけで描くのは、原爆の犠牲者、死者の方たちへの冒涜ではないのか。そのように思えてならないのです。人間はみずからの自由な想像力によって、あらゆることを描くことができると自負するかもしれませんが、そうした想像力にしても、描けないものがあるとすれば、それが原爆なのです。そして、私には原爆を描く権利がない。
もっとも私自身にも、終戦の夏、生まれ故郷である福井で大空襲にあい、猛火のなかを逃げまどい、ようやく生き延びた記憶があります。広島のすさまじさは知らないにしても、私のなかにある戦争の記憶、その恐怖といったものは、広島と深く重なり合っているともいえるのです。広島という地名は、戦争のすさまじさの象徴です。広島を思い起こすことは、私の福井を思うことでもある。それが私に原爆を描かせた理由ですが、果たして被爆体験のない私に、想像力に頼ってそれを描いてよいのか、そうした迷いを乗り越えるためには、私には50年の歳月が必要だったのです。
たしかに『鏡の女たち』は、原爆をテーマにした作品ですが、ぜひ観客のみなさんに見ていただきたいのは、それを描く権利のない私が、原爆を映画のなかでどのように描いたかということです。8月6日の、あの瞬間のキノコグモを、コンピュータ・グラフイックスで描くことは、技術的には簡単です。しかし、それは原爆投下の瞬間を、再現したに過ぎません。これまでもそうした映画がありましたが、原爆は再現できない、再現してはならないとものだと、私は考える人間です。二度と観てはならないもの、その「聖なる瞬間」が原爆です。それをコンピュータ・グラフイックスで容易に再現して、それを映画として見せる行為が許されるとは思えません。
それではどのような方法で、8月6日のあの瞬間を描くのか。私が映画のなかで原爆を見せるのではなく、それを見る観客自身が、それぞれの想像力によって、おのずから8月6日の原爆を映画のなかに見てしまう。そういう映画なら作れる。私が原爆を見せるのではなくて、観客のみなさんがこの映画をとおして、あの瞬間をイメージ化し、みずから追体験してしまう。それはみなさんの想像力によって、観客自身がみずからの原爆映画を作ることでもあるのです。

『鏡の女たち』は、昨年の朝日ベストテン映画祭第1位を受賞し、これまでの監督のお仕事の到達点、集大成というような高い評価をされていますが、どのように受け止められておられますか?

この作品への暖かいご支援をいただいて、感謝しております。
私はこの14年間、映画から離れておりまた。いまの若い世代の方たちは、同時代的なものとして、あるいは同時進行的に、私の映画を見ていないわけです。そうしたことを踏まえて、私の親しい友人である蓮實重彦さんや、四方田犬彦さんたちが、『鏡の女たち』を契機に、いわば吉田喜重の回顧上映を行い、再評価の場を作ろうと努力してくださったのです。もっとも回顧上映というのは、その当事者が亡くなった折りに試みられるのが普通ですが、それが私の場合は、生きながらにして回顧上映をしていただける(笑)。大変幸せなことだと思っています。
東京では9月11日から3週間、全作品19本と主なドキュメンタリー作品が、蓮實さんのネーミングによる、「吉田喜重 変貌の倫理」として、特別上映されました。また大阪でも、この12月4日より2週間、第七藝術劇場でで上映されます。その折りには、私も岡田とともに、劇場でトークをさせていただきますが、45年にわたる私自身の映画人生を語ることができればと思っております。

確かに回顧上映は、監督が亡くなってからが多いんですが、お元気なうちに、監督ご自身がそこに立ち会われ、直接言葉を発せられるというのは、観客としては、大きな魅力だと思います。

ただトークといっても、これは私の持論ですが、作品の一作、一作が、こういう意味で撮りましたという話にはならないでしょう。デビュー作である『ろくでなし』にしても、それが封切られた60年当時の観客の見方と、現在の若い世代の受け止め方が、当然ちがうでしょう。それがこの映画への新たな対話の始まりになれば、それこそ45年以前の映画が、いまも生きている証拠です。
こうした場合、監督自身がこういう意味で、この映画を作りました、こういうふうに見てくださいと話すことは、観客の映画を見ることの歓びを奪うことにもなります。ただ私なりに、この映画をこのように作らざるを得なかったというトークでしたら、許されるでしょう(笑)。



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