log osaka web magazine index

李龍植(い・りょんしく/り・りゅうしょく)
1960年、京都生まれ。丹波マンガン記念館館長。1986年より実父である初代館長、李貞鎬氏(故人)の右腕となって館の設立・運営にあたり、1995年に二代目館長に就任。自ら鉱山で働き生活した経験、塵肺患者より集めた証言などを交え、鉱山(やま)で生きてきた者たちの歴史を語り伝える。『丹波マンガン記念館の歴史』を開放出版より出版予定。二児の父。
丹波マンガン記念館:日本の近代化に不可欠な物資として明治から昭和にかけて採掘されたマンガンの全体像を後世に伝えるべく、1989年に京北に開館された。マンガンの生成、開発の歴史とともに、採掘に携わった労働者の人権に関する資料も収集・展示する。現在、閉館が論議されている。
参照:虫賀宗博編集『ワシらは鉱山(やま)で生きてきた——丹波マンガン記念館の精神史』(丹波マンガン記念館発行、1992年)


高嶺格(たかみね・ただす)
1968年、鹿児島生まれ。美術作家。見る者の生活感覚や倫理観にも触れる多層的な作品づくりで高い評価を得、国内外の名だたるアート・フェスティバル、美術館で個人作品を発表する。1993年から1997年までダムタイプの3作品にパフォーマーとして参加し、イスラエルのBatSheva Dance Companyや金森穣監督のNoism04をはじめ、舞台作品のコラボレーションも数多く手掛ける。二児の父。
『在日の恋人』:京都ビエンナーレ2003における高嶺氏の出品作品。2003年8月より記念館における滞在制作を開始し、同館の旧坑道内では野焼きした陶作品によるインスタレーションを、京都芸術センターでは日記と映像による製作過程のドキュメンテーションを展示した。(坑道のインスタレーションはそのまま残され、現在も閲覧可能)また、同作品における日記を中心に、その後結婚にいたる恋人との関係を 綴った書籍『在日の恋人』が、2008年12月に河手書房新社より出版された。
参照:http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/curator/kc_0312.html
http://www.amazon.co.jp/光速スローネス—京都ビエンナーレ2003/dp/4434060945


page  1 / 2 / 3

高嶺:丹波マンガン記念館で作品をつくるに至った経緯は、『在日の恋人』に書いたことでもあるんですが、まず京都ビエンナーレ2003のテーマ<光速スローネス>を受けて、自然の洞窟に住んでみようという案が出てきたんですね。それで、当時住んでいた近くでいくつか見て廻ったんだけど、どうにもそれは実現できそうになくて半ば諦めかけていたところに、木村君という友人が記念館のことを教えてくれて、なにはともあれ行ってみようと。

李:そうそう。あの頃は大垣に住んでいたよね。車で来た。

高嶺:そう、遠かったんです。着いてまず記念館を見学して、そのあと山道をブラブラ廻って洞窟を覗いたりして、降りて来たら館長とおぼしき李さんにばったり会った。その時は作品づくりの話はせず、この辺りのことをいろいろ聞いたら李さんは機嫌よう教えてくれて、ついでに「熊が出る」とか「マムシが出る」とか脅されて(笑)。でも、そうやってアポもなくふらっと行って、館長さんに会えたのは大きかった。

李:えらい真剣に話を聞くし、よく質問するし、覚えているよ。長い時間かけて話をして帰ったから、熱心な来館者くらいに思っていたけど。「穴の中はどんな感じなのか」とか、今思えば探っていたんやね(笑)。

高嶺:行く前に館のホームページを見て、すごく緊張していたんです。単なる記念館じゃなく、政治的な意図を持った場所でもあるし、「僕みたいなんが行って、もみくちゃにされへんかな」とか。でもここしかあり得ないと思ったのは、李さんに会ったことが大きくて、そのことで自然の洞窟の中に住んでみるという最初のコンセプトが、丹波マンガン記念館に住み込むことにがらっと変わった。在日ということも入ってきて、在日である恋人との関係も入ってきて。李さんと恋人のKと僕っていう、作品の核になる構図ができた。

李:話を聞いて最初にどう思ったか? 初めて来た時は何も言わず、後からファックスを送ってきて、その中にまわりくどう書いてあるから。なんか使いたいってことはわかるけど、そんな話は電話や手紙でできるものやない、来て話をと思っていた。いざ会ってみたら、でかい石を洞窟に持って入って削るとか、テントを張って寝泊まりするとか、最初はとんでもないことを言っていたね。

高嶺:記念館に住み込むとはいっても、テントを張れるくらいで、他にどんな手だてがあるのか、資材をどこから持って来たらいいのか、具体的にはわからないわけですよ。最初から記念館に依存していることがあまりにも多い。今考えると無茶ですよね。

李:山の中でものをつくるのにテントなんかでは無理や。その時は家を建てるまで考えていなかったけど、他にいくらでも方法はあるわけだし。じゃあ何か建てると言うから、そういえば建てかけのやつがあるからそれやってみるかって話で。それで骨組みができたらなんとかなるわと思っていて、建ったらまた「壁はブルーシートにする」と。そんなの、3ヶ月くらいで穴が空いてくるし木も腐ってくる。彼もアーティストなんやったらある程度やると思っていたら、全然あかん。

高嶺:(笑)もちろん家をつくるスキルなんかはないので、僕らにできることってシートかけるくらいかなって。雨露しのげるようにして仮設生活をというイメージだった。

李:まあ、建てているうちに結構立派になっていく。そうすると、「これやったらトタンを貼ってしまってはどうか」と。

高嶺:ある日突然「屋根を注文しといたから」って。

李:高嶺くんがたくさん人数を連れてくるから、この際や。ものをつくるのも好きやし。アウトドアも好きや。若い者とわいわい酒を呑むのもね。で、呑んだ都合で「よっしゃ!」と言ったらしゃあない。手伝うといってもそんな流れでのこと。
高嶺:僕もたいがい怖かったですけど、手伝ってくれてた若い子なんかは、まず李さんの見てくれにうろたえるわけですよ、この人はただの博物館の館長なんかじゃないって。重機やチェンソーもそこらへんに転がっているし。でも話すとすごくよく面倒みてくれるし、ギャグも飛ばすから、そのギャップでどんどん高揚しながら作業していたって感じだと思います。

李:まあ、アウトドアが楽しかったんでしょうね。穴っていうのも珍しいし、街の子にはあまりできないこと、だいぶ変わったことをしているわけだし。

高嶺:アウトドアって言うとまたイメージが違いますけどね。もっとハードコア。家づくりのことだけじゃなくて、電気工事したり、川から水を引いてきてお風呂沸かしたり、生活に必要なものを自前でつくれるだけの技術と資材があって、それを全部支えてくれている李さんがいる。そのことが結果的に、最初に自然の洞窟で住むと考えていたときに頭にあった、生きるためのノウハウ、蓄積があるところに住むということにもつながった。

李:こっちはこっちで、今の若い人ってどんな感覚しているのかなって。年が離れてずれてくる感覚を補正するというか、そういうことは好きやった。教えるとかそんな悠長なことをしている暇はなかったね。急がないと作品にかかる時間がない。「この家が作品か」って言っていたくらいで。現場では「あれせえこれせえ」って。でも私は、来た人は無人島に行っても生きていけると思うくらいいろいろ学んだのやないか、機械なしでも応用する力がちょっとは備わっていったのやないかと思っていますよ。

高嶺:実際、家づくりには毎日昂奮していました。チェーンソーなんか握ったのも初めてで、こんなに切れへんものかとか、右腕をこんな風に使ったらこうなるのかとか。やればやるだけうまくなっていく。

李:うまくなったよね。家は一ヶ月かからず出来た。

高嶺:家ができたときには達成感というか、「出来てしもうたけどどうしよう」、「もうやることあらへん」みたいなぼーっとした時間がありました。実際、何を展示したらいいかっていうのは、ずっとわからなかったんですよ。ここに来たお客さんに、記念館を見た後で作品の坑道に上るという時間の中で、何を見せたらいいのか。

李:わしも全くわかれへん。この人は何がしたいのやろうってずっと思っていたけど、それが家できるまでわかれへん。できてからもわかれへん。完成してからも全然わかれへん。 (一同爆笑)
page  1 / 2 / 3