高嶺:この作品をつくる時に強く意識していたのは数ということ。それはまず第一に李さんに、記念館にとってこれだけの成果がありましたってわかりやすく示すものとしての数で、それから、見た人が誰かに話していくことなんかで生まれる具体的な広がり。そういう意味で一人でもいっぱい連れて来な、一誌でもいっぱい載らなと、やっている間はそこに向かって邁進した。
李:期間中は、通常300か400くらいのお客さんが600人に増えたね。
高嶺:でも、終わった後に数じゃない何かが出てきた。それは、本の出版にも関係するけれど、これで終わりかという苦々しさと、その後どう伝えられてゆくのかという気がかりのようなもの。下山してすぐの頃はすごく苦しかったんですね。李さんにも言われ自分でも考えたことだけれど、僕らはこれでお祭り終わって家に帰る。なんやそれだけのことか、芸術はそんなもんかいな、と。それなら、広告代理店が企画してやるイベントと何が違うんだろう。もちろん自分は全く違うものだと思っているけれど、客観的に見たら同じ一過性のことかも知れない。それで、僕が芸術をとおしてできることの精一杯は何だろうとか、もっとできることがあるんじゃないかとか、考えてしまうようになっていたんですね。
李:それでもあの作品をつくったのはよかったと思っているでしょう?
高嶺:それはもう。
李:わしはね、記念館を20年間やってきた。それで今閉館するかしないかっていう話をしていて、記念館つくる時にも同じような話をしていたんですよ。勢いで建てても、行政と一緒にやらないと存続していくのは大変やって。でも父親(*丹波マンガン記念館初代館長、李貞鎬氏(故人))は、「あいつらと一緒に建設していたらワシが死ぬまでにでけへん。だから今やる」って。それで20年間。潰れるかどうかって時にまた、これは何のためにやってきたんやって。つくるのに2億円。維持するのに1億円。嫁さんは「何が残る?」と言うわけや。でもその時に必要やと思ったから、あらん限りの知恵、力を出して精一杯建設した。それで物語ができたからええ。それで歴史がつくられていく。そういう考えですわ。さっき言ったけど、作品つくったり記念館やったりというのは、具体的な生産性があるわけではない。物語を、歴史をつくるんです。それは記念館で言えば、人権とか差別とか、何かを訴えて歴史を塗り替える素地をつくるということ。それができたら記念館の使命は終り、くらいに思っている。 |
|