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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


09 空腹の技法 その2 山下残

<踊ることとダンスをつくること>

ここからテクストを用いた3部作へとつながってゆくかと思うのですが、素朴な疑問として、ダンサーが体を鍛えていって、何故テクスト、あるいは言葉と取り組むようになって行かれたのかな、と。一般に、ダンスは言葉やテクストと異なるメディアであるってところで、独自の価値を認められるといった考え方がありますよね。有名なダンサーがよく、「言葉にできるのなら踊る意味はない」みたいなことを言っているように。山下さんの場合はそのあたりの抵抗は?

山下:それは、ダンスをどうつくっていこうかというところですごく悩んだことと関係していると思います。ダンスをしている人はみんなそうだと思うんですけれど、自分の体で感じたこととか、身体性をどう作品にしていくか、ということで悩んだんですね。まあ、作品をつくることは、踊ることと、全然分裂したことなんですよね。
 それで、その分裂が一生かけてつながればいいな、くらいに思っていて、その時に僕の中では、ダンサーとしてやっていく気持ちもありますけれど、最初は勅使川原三郎さん、伊藤キムさんなどの優れたダンサーを見つつ踊っていて、ある程度の年になると、あんな風にはなれないなと思うんですよ。僕は思ったんですよ。それで、当時日本に振付家がいないというのは、バレエを習いにいってもどこでもよく言われていたので、僕は作品をつくる方向に行けたらいいかな、とは考えていて。ただ、踊りたいっていう気持ちが始めにあるもんだから、そこで分裂していたんですね。そのことは『ミュージック』とか『詩の朗読』とかをやりながらずーっと考えてて、まだダンスが作品に結びつかないなっていうところを抱えていて…。
 なんていうかな、自分なりにダンスというものと、ダンスとそぐわないものを結びつけることで、そこに作品化の手がかりを見いだせないかって思ったんでしょうね。ダンスが跳び越えれないものによって、ダンスというかたちが見えてくるんじゃないか、そこで起きる摩擦みたいなものが作品になればいいかな、といった…。なんか最近になって考えたことかも知れないけれど、ダンスをつくるっていうことと、踊りたいっていう気持ちがどうしても結びつかなかったときに、そういうのが無意識にあったのかも知れませんね。
 

 
たしかに踊るのと作品をつくるってとこで分裂しますよね。でもふつう振付家って、まず踊る人で、踊る中で自分のことを客観視する自分が生まれてくるように思えるんですね。いわゆるコンテンポラリー・ダンス、それも山下さんの後の世代くらいからそうじゃなくなったのですが。ところが山下さんは、最初っから分裂を意識されていた。

山下:僕の場合は冗談じゃなくて、「僕みたいなのが踊ったら面白いやろうな」って、初めから客観視して踊り始めましたからね。「僕みたいなのが、ふつうダンスせえへんやろうな」って。(笑)

なんでそんなことを…。

山下:体型とかもひょろっとしてるしね。運動神経だって、ちっちゃい頃からもともと良くないし。

それでも踊り始めの頃は、体を鍛えるほうにのめりこんでおられたんですよね?

山下:まあ、また話逸れるかもしれませんが、僕高校くらいですごく落ちこぼれて、路頭に迷って、もう人生どうでもええわって思ったんですね。10代くらいのときに。それで、どうでもいいんだったら踊りでも始めるかって。自分でやりたいこと、ひょっとするとじっくりと取り組める、のめりこめるものが初めてできた、くらいの感じですよ。本当に若い、20代の前半に、嬉しくって夢中で取り組めることができたっていう感じ。それが体を鍛えるってことにつながったと思うんですけれども。でもなんか、「自分みたいなのが…」ってのは、あったんですよね。

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