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なぜ作品を作るのか?プロセスや裏話を根掘り葉掘りインタビュー。


Part2

「1985.11.24.5:00 カラノ ヤキイモ」

京都芸大の学園祭で山下洋輔を呼んで学内の空き地でコンサートを行った時その演出として、またゴジラが登場するんですよ。学生の創った作品で不要になったものをたくさん集めて30mほどの半円形の壁を作ってゴジラがそれを燃やし続けるというパフォーマンスを行う。僕はゴジラを着て燃やし続けてたから、もちろん見ていないけど(途中から燃え移りそうになって危ないから脱ぐことになるんだけどもう熱くてね。)その火に囲まれて演奏をする山下洋輔のピアノコンサートはビジュアル的にも凄くよかったらしい。作品を燃やしてたから悲しいという批判もあったけどね。途中で消防車が来てね。近付いてきたら音を消してスーッと入って来てね、またスーッと静かに出ていくというシーンもあって、まるで演出したかのようなタイミングでね。

映像に残ってないのが惜しいですね!!

その頃はビデオで記録するなんてことほとんどなかったからね。カセットテープだけは残っている。

学外でもいろいろされてますよね。

大阪のEST-1でゴジラと巨大シャチが戦うパフォーマンスを赤星というバンドとやったり、八尾西武や心斎橋パルコでもパフォーマンスをしたことがあります。心斎橋パルコではアリの行列が入って行くというドローイングをするというもので、ドアの前からショッピングモールに向けて、1匹1匹地面にひたすらアリを描き続ける(一日中)。少し離れたところでは、奥田耕造というアーティストが音楽をがんがん流しながらアクションペインティングをしていて、その派手さと地味さの落差がまた可笑しかった。大阪の劇団の舞台に中島らもとゲスト出演したり(僕はゴジラやったけど)しましたね。
京都のアバンティではオープンの時からディスプレイの仕事やイベントスペースでパフォーマンスを定期的に行ったり。ライブハウスでディスプレイやライブパフォーマンスを行ったりね。もうめちゃくちゃやったわ。そういえば当時デビューしたばかりの大阪芸人、嘉門達夫にライブハウスに展示していたコイノボリを拉致されたんや。あれどうなったかな。

「ナマズの群像建設未定地」


 
  1984/千葉県我孫子市、手賀沼周辺の空き地
 
東京から展覧会のオファーがあって、数週間滞在して野外で何かをするという企画でね。他には東京芸大の彫刻を卒業して活躍していた若手アーティストが参加していたかな。普段から芸大の学生があたりまえのように美術の権威を疑う事なく、作家然とふるまうことに対して疑問を感じていたのもあって、「絶対美術作品だということは言わない」というルールを自分で作って参加してみました。
何をしたかというと、手賀沼という大きな沼沿いの住宅地の空き地に「ナマズの群像建設未定地」という看板を立てて、穴を掘り続けたんですよ。そこに10台ほどモニターを埋め込んでね。昼間は何も見えないんだけど、夜になるとボワーっと光って。僕は、黙々とそこで作業をしてると、通りがかりのおじさんでずっと気にかけてくれる人がいて「何やってるの?」と聞かれてね、で「なまずの群像建設未定地を作ってるんです」と答える。「未定地っておかしいやないか。」と言われるんです。当然ね。また「そんなエネルギーがあるんやったら、建築現場で働いた方が稼げるぞ」と毎日のように説教しに来てくれるんです。まあ、僕は楽しんでたけど絶対に受け入れてもらえんかったな。(笑)

そうそう確かこの頃、東京にヨーゼフ・ボイスが来て展覧会をやってて、社会彫刻というのは良く分らなかったけど、学生なりに解釈して結構いけると思っていたかな。(実はサインを持っているんです。2つも!単なるミーハーやね。)


 
  「6年間の結婚生活にもかかわらず決してあたたかな家庭を築くことは出来ませんでした。」1985 京都市立美術館正面玄関前 40m×6m×7m 約3ヶ月にわたるゴジラと埴輪の結婚離婚問題シリーズの一部 展示の直前に京都芸大ギャラリーで行われた卒業審査会を一般公開とし観客を集め、ゴジラと埴輪の結婚披露宴と位置付けパフォーマンスを行う。この展示の後、卒業式の日に埴輪を京都芸大の中心に位置する丸池に沈めてお別れをする。予期せぬことに現在ではこの埴輪が学生たちの間で京都芸大を象徴するキャラクターとして不思議がられている。
 
大学院卒業後は?

芸大にいる時は美術を学ぶために作品を作らなきゃいけないという義務みたいなものがあったけど、卒業してしまうとその必然性はなくなるでしょ。なので、美術というカテゴリーをはずして「ものを創るって何だろう?」ということを考えるために、紙芝居屋さんをやろうと考えて。アートのイメージから逃れようとしてたんだよね、ずっと。紙芝居だとまさかアートだとは思わないでしょ。そんな時、京都のギャラリーGARDEN(建築家高松伸がデザインした高級クラブのような内装の変なギャラリー)というところから展覧会のオファーをもらって。オープンしたばかりで若い作家はほとんど展覧会やったことない完全企画のギャラリーだったんだけど、杉山雅之君と僕が選ばれて2週間ずつ個展を。会期中は、上演時間を決めて毎日3回、その時間になると人がいてもいなくても紙芝居をやる。アーノルド・ローベルという絵本作家の教科書にも載ってるような有名な『おてがみ』と、『おはなし』を紙芝居にして。絵は芸大の後輩だった中島隆章君に描いてもらって。空いてる時間は、派手に加工した自転車に紙芝居をのっけて河原町とか商店街にくり出して。外でも同じように、大きな声でね。とにかく、自分の全エネルギーを言葉に込める読み方で1回1回すべてを吐き出すように、(モーツアルトをかけながら)テンポよく。会場のシャチの頭のオブジェに仕込まれたスピーカーからは僕の声で泣き声やうめき声のようなものをエンドレステープに録音したものが延々と流れています。


 
  「素敵な畑 働く僕 退屈な芋 飽きたけど そこでがんばれ 雨蛙!」 1985/GARDEN(京都)
 
この二つのストーリー『おてがみ』と『おはなし』を選んだのは?

この紙芝居は今でも時々使うんだけど、この絵本には「何かのために(誰かのため)に何かを創る」という表現の基本が書いてあると思ってね。その頃は、作品を創るということはただの自己満足じゃないか?とか展覧会で人に見せるために作っているのか?とかいう疑問を感じていたので、この絵本に描かれているような美術とか芸術うんぬんとかをまったく飛び越えた表現の基本みたいなところに感覚的に惹かれたのかな。でもこの二つを選んだのはほんとに偶然で、紙芝居をやろうと決めて何にしようかと考えていた時、とにかくカエルのお話にしようと思って。近くにいた人に相談してたまたま持ってきたのがこの本だったんです。

二つとも雨蛙くんとガマ蛙くんが登場します。『おてがみ』というのは、手紙をもらったことのないガマくんが、郵便が配達される時刻になるといつも寂しそうにしているのを知った友だちの雨蛙くんが急いで家に帰りガマくんに手紙を書いて、二人で手紙が来るのを幸せな気持ちで待つというストーリー。
『おはなし』というのは病気の雨蛙くんが、ガマくんに「何かお話をして」とお願いするんだけど、なかなかお話が思い浮かばなくて、お話を思い付こうと逆立ちをしてみたり、虫を食べたり、頭に水をかぶったり、壁に頭をぶつけたりしてあげくの果てには病気になってしまう。そうしているうちに元気になった雨蛙くんが、寝ているガマくんにお話をしてあげるんだけど、それはガマくんが雨蛙くんにお話をしてあげようと、必死に物語を思い出そうとしているガマくんの姿のお話で。これを繰り返し繰り返し読んで、自分の中に何か大切なものを刻み込もうとしてましたね。今では、自分が何かを創ったり、活動する時の基本となっているし、これが抜け落ちている表現というのは僕はあまり興味ない。
 

 
つづく

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