なぜ作品を作るのか?プロセスや裏話を根掘り葉掘りインタビュー。 |
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+ 雨森信
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1969大阪生まれ/インディペンデントキュレーター
京都市立芸術大学 美術学部卒業後、設計事務所で2年ほど働く。いろんな偶然が重なって展覧会を企画するようになる。キュレーターやギャラリストを目指していたわけではなく、場所があったのと面白い作品を創っている人が周りにいたから「何かしなければ」と感じ、始めたことだった。1996年から3年間、現代美術画廊、アートスペース虹(京都)で働く。日本の美術システムを身体で体験。1999年渡蘭。映像関係の専門機関やフェスティバルが圧倒的に多いこと、また展覧会にも映像作品が当然のように存在していることにショックを受ける。World Wide Video Festival (アムステルダム)にて研修。2001年帰国、京都芸術センターにて『KYOTO x AMSTERDAM -NEWDIRECTIONS- 』を企画。日本人、オランダ人の作家を中心に映像インスタレーションの展示、ビデオ上映会、ライブパフォーマンスを行う。2002年春にオランダへも巡回。
現在は、主に映像表現に関するリサーチ、上映会、展覧会の企画を行う。NPO法人Record, Expression, and Medium Organization (大阪)でもキュレーターとして活動を始める。驚いたことに、このような仕事をはじめてから(何度も止めようと思いながらも)10年が過ぎようとしいる。 |
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作品ファイルがたくさんありますね。
その頃は、作品ごとにファイルを1冊ずつ作っていました。特に意図してはじめたわけじゃないんだけど、何かをやると写真がいっぱいたまってくるでしょ。人からももらうしね。それをただ並べるだけではおもしろくないなあと。
写真を時間軸で並べていくと勝手にストーリーが出来てくる。 そのストーリーは僕がやろうとしていたものとは全然関係ないものだったりするんだけど、これも面白いかなと思って。
ちょうど、前にお話したガマ君と雨蛙君のおはなしのようにね、僕自身が右往左往している姿がそのまま物語になってゆくみたいな面白さかな。自分の行っていることを一歩ひいて見ている視線だよね。
ガーデンの展覧会後は東京での展覧会に招待されて、結局美術作家として出品してしまうわけね。美術というハニワさんとお別れしたはずなのにね。最初は『カメハニワの棲む島』を出品した多摩美術大学での「TAMAVIVANT」だったかな。当時、現代美術の登竜門といわれていた横浜の「今日の作家展」や原美術館の「ハラアニュアル」などにも招待されましたね。
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『松の木の憂鬱』1985
4年間住んでいた一軒家の借家。庭など敷地約120坪全体を使ってインスタレーションを行う。 松の木(ぬいぐるみ)の長さ約50m。庭にある既存の植え込みの松の枝が伸びて、一方は建物を突き抜け玄関から飛び出し、一方の枝は階段を抜けて2階まで上がり寝室の窓から飛び出ている風景をつくる。素材:木材、布、皿、石膏、芝、土、鉛、スピーカー、他
出品作家 杉山雅之、坪良一、林剛、藤浩志の作品が交錯している清閑な住宅地の中の居住空間での作品。展覧会の前半2週間を「研究分析のための展示期間」とし招待者のみに公開。後半の10日間を一般公開とした。* この作品は横浜市民ギャラリーで行われた「今日の作家展」へそのまま持ち込み出品。
この時は芸大の近くの善峰寺にある何十メートルもある日本一の老松を見て、伸び続ける松を支えているしくみと社会のシステムを重ね合わせて見てたんです。伸び続けていくこと、成長って何だろう? 僕自身もそうだけど、企業としてまた国として成長し続けなければいけないとみんな考えていてるんだけど、永遠に成長し続けることはあり得ないんじゃないか?どんどん成長して巨大になっていく。でもその後には衰退するんですよ。だから巨大になるという感覚に対して疑問があって。成長しなくてもいいんじゃないかと考えていて。それでこの作品を作ったんです。
これってアーティストとして好調なスタートですよね。
このころが一番節操なく作ってた時期かな..でも僕自身は自分の気持ちを表現したいだけだったので美術、現代美術をやってるつもりはまったくなかった。むしろインスタレーションの作家とよばれるのもすごく嫌だった。美術の枠組みから逃れようとしてたんだけど、頼まれると断れない優柔不断な性格でね・・。
気持ちよくて死んでしまいそう・・。
美術館なんかで展覧会に作家として招待されて、オープニングパーティーでワインや食べ物なんかが並んでて、いつもは超貧乏なぎりぎりの状態なのに、展覧会となると妙に華やかで作家先生扱いされたりして、作家としてはある種心地良い状況なのかもしれないけど、そのシステムの中にどっぷり浸かっちゃうと危ない!それを当時カエルに例えて話してたんだけど、熱湯にカエルを入れたら熱くてすぐに飛び出るんだけど、水の中にカエルを入れて、徐々に熱くしてゆくと知らない間に熱湯になって死んじゃうという…そんな危機感を自分自身に感じていましたね。
「カメハニワの棲む島」(part2参照)を制作していた時、埴輪(社会の中での肩書き)をかぶらないわけにはいかないなあと考えるようになるんだけど、じゃあ、どういう埴輪をどのようにかぶるのか?どういう肩書きを身に付けて何をやっていくのか?美術の埴輪だけが大きくなってしまうと、自分の生命が危ないなあと。その亀と埴輪のバランスが重要じゃないかと考えるようになって。
そのバランスを保つために美術というか表現活動が重要だと感じてるんですが。
僕にとっては探究活動かな。
それで青年海外協力隊に?
当時の美術の状況から逃れようとしていたのも理由の一つだったと思うけど、卒業後、「ちゃんと就職しなければ」と考えてて。美術の世界から離れて自分がどういう肩書きを持つのかということを一番気にしていましたね。(多くの人が考えることだと思うけど)
その頃、つかしんがオープンするということでそこの学芸員を募集していて、ある人に紹介されて、その面接に行くことになったんです。で、面接に行く当日、梅田に向かう電車の中でたまたま情報誌のLマガジンを読んでたんです。そこで見つけてしまったんですよ。青年海外協力隊募集の記事をね。開発途上国で2年間という文字とともにアフリカかどこかのかわいい子供がすごくいい笑顔でにかっと笑って僕の方をみているわけ。その写真が目に飛び込んで来て、その表情に惹かれて読んでみると、ちょうどその日に説明会が大阪であるって書いてあったんです。ちょうど電車が向っている方向で時間もぴったしで。それで約束していた面接を急遽キャンセルしてその説明会に行くことに。
そこでジワーッとイメージが広がってきてね。今ある自分の場所からかなり遠いところに行けるんじゃないかというイメージ。単に距離だけでなく、時間軸や美術というジャンルから遠いところ。以前から50年代60年代の美術状況に興味を持っていたし、社会的な動きがある変革期に自分がいたら自分が活かせるんじゃないかなあと思っていたので、それが国を替えることで、得られるんじゃないかとね。日本にいて時間を遡ることはできないけれども、開発途上国に行くことでそれが可能かもしれないとね。また外務省とか国際協力とかいう分野が美術という枠組みから遠い世界のように感じて。別れたはずの美術だったのに、結局、展覧会に出品して中途半端な関係を続けていたので、この機会に今ある自分の状況から離れてもう一度関係をはっきりさせることができるんじゃないかと考えて、パプアニューギニアへ。
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『皇太子・皇太子后・その息子の肖像』
ハラアニュアルⅣ/原美術館/1986
サイズ:6mx15m
素材:木材、和紙、コンクリート、印刷物、ワイングラス、スピーカー、他 青年海外協力隊の出発前の東宮御所での壮行会の風景を再現。日光月光の間(大きな富士山の壁画と両側に太陽と月が描かれている日光月光という広間)で皇太子(現在の天皇陛下)に励ましのお言葉をいただく。そのとき浩宮様が紺色地に赤い水玉の派手な不似合いのネクタイをしていたのでそのことを話題にお話した時の印象を再現した風景。床には桜の花びらの印刷物を敷き詰め、庭にはゴジラのぬいぐるみを埋葬しお墓として地味に出品。壁には「気持ち良くて死んでしまいそうだ」と殴り書きがしてあった。
青年海外協力隊員として出発するまで東京広尾の訓練所で合宿して、出発前日に搬入、セッティングし、この展覧会のオープニングの日にパプアニューギニアに旅立つ。
つづく
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