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戦前戦後の傑作車両

 車両は、はじめ運転台が吹きさらしのオープンデッキスタイルだったが、大正初期からはガラス窓がはめこまれるようになり、大正十一年(一九二二)には大阪市電独特の優雅な丸屋根デザインを持つ1081型(後の1001型)が誕生した。木造車は大正末期製造の1501型が最後になり、昭和に入って最初に作られた1601型からすべて鋼鉄製に切り替わった。この1601型は戦前の最高傑作で、現在でも十分通用する性能を持っていたと、昭和二十五年(一九五〇)から四十七年(一九七二)まで大阪市交通局で車両技術を担当していた辰巳博さん(元大阪市立電気科学館長)は言う。
「大阪の市電は日本一技術が優秀でした。なかでも昭和三年にできた1601型は当時の技術の粋を集めて作り、高性能のモーター、制御装置を備え、振動が少なくて乗り心地もよかった。電車には珍しい回転式通風器が屋根にあって、外観もモダンでした」
 1601型は、その後長らく大阪市電の標準型式になる。
 戦後、市電のもうひとつの傑作と呼ばれた電車が生まれた。3001型の無音電車である。
「これは和製PCCカーとも呼ばれました。これは当時のアメリカで自動車攻勢に対抗して、各都市の幹部が集まり協議して作った理想の路面電車と言われるものでしたが、そのままでは日本の国情に合わない面も多かった。私たちは、日本には日本の理想的な路面電車があるはずだと考えました。当時の大阪市内は騒音が問題でした。それで3001型無音電車を作ったんです。これには防音防振追求のため、さまざまな工夫が凝らされていて、今の時代に持ってきても恥ずかしくない電車でした」

市電ニューモード

 大阪市電は他にも時代の先端を行くニューモードを生んでいる。昭和初期に作られ、水雷型と呼ばれた801型は、当時の不況を背景に小型でしかも高性能をめざしたもの。車端部をしぼったデザインからこの呼び名がついたが、最大の特徴は左右非対称の構造としたことで、大型車なみの輸送力を確保できたこと。戦後は常識になった左右非対称という発想は、大阪市電から始まった。
 時代の流行を映した車両には、昭和十年ごろに生まれた流線型の901型がある。当時時速四〇キロ程度で走行していた市電には流体力学的に流線型デザインのメリットはなかったが、外観のスマートさから名物電車のひとつになったという。
 市電にまつわる風物で忘れてならないのが花電車。明治三十八年(一九〇五)、日露戦争の日本海海戦勝利を祝って走ったのが最初で、その後も御大典記念、大阪城天守閣再建記念、地下鉄開通市電創業三十周年記念、皇太子殿下御誕生記念など記念行事があるたび、ほとんど毎年のように花電車のパレードがあった。昭和三十六年(一九六一)の大阪まつりでの走行が最後になったが、街を彩る華やかなデコレーションと照明は大いに人々を楽しませた。
 市電の車体の色は開業以来、あずき色が用いられた。街並みに溶け込み、落ち着いた景観を演出するのにひと役かったこの色には実はこんな伝説がある。
「市電の開業申請の際にこの車体色で認可されたのですが、後になってこれが天皇の御料車と同じだとわかった。天皇が現人神におわしました当時のことですので、まことにおそれ多いというわけで、すでに認可してしまった大阪市電だけを例外として、以後他都市はこの色を用いることが許されなくなったそうです」と辰巳さん。「戦後は上半分をクリーム色に塗り分けたツートーンカラーになりましたが、それまではよその市電は黄や緑の明るい色なのに、と子ども心に思ってましたけどね」

発展拡張の一途をたどる大阪で、市民の交通手段として活躍する市電も、創業当時の風景にはのどかな空気が流れる。
市電がくぐる渡辺橋の、歓迎の大アーチ。商店や会社は競って第2期線開通祝いの催しを開いた。
花園橋付近を走る2階付き電車。「2階の方が料金が高おまっか」と尋ねる人も。
昭和10年から翌年にかけて製造された流線型の901型。北浜3丁目あたり。
昭和34年4月10日から17日まで、皇太子殿下御成婚記念花電車が走った。
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