log osaka web magazine index
WHAT'S CCC
PROFILE
HOW TO
INFORMATION
公演タイトル
パフォーマー
会場
スタッフ・キャスト情報
キーワード検索

条件追加
and or
全文検索
公演日



検索条件をリセット
赦しの先にあるもの 栂井理依
 女を途方もなく愛するあまり、傷つく男たちの奮闘を描いた『日本の女』—2001年12月、阿佐ヶ谷スパイダースが、初めて大阪公演をした作品である。場所は、今はなき扇町ミュージアムスクエアだった。
 浮気をした妻を半殺しにし、その後も仲間を作って殴る蹴るを繰返した挙句、女のいない世界を作ろうとした主人公を中心に、女に振りまわされる男たちのみっともない現実。セックスや暴力ネタを斜から見て、巧みに笑いにすり変えてはいたが、実際は、底辺に流れる不器用な男たちの純粋な想いが、そのダークさを軽々と超え、狂おしいほど切ない物語だった。

 この2年半の間に、阿佐ヶ谷スパイダースは、急速に人気劇団(厳密には劇団ではなく、演劇ユニットだが)へと成長し、公演する劇場も大きくなった。そして、そんな彼らが、再び、『日本の女』を上演したときの役者陣を集めたのが、今回の『はたらくおとこ』である。

 パンフレットによると、『日本の女』は、台本を基に、長時間の稽古の中で各役者が勢いで人物を造形していく必要があったのだが、『はたらくおとこ』は、一人一人の人物背景がしっかりと書きこまれており、役者自身が、その中で感情を飛躍させたり人格を掘り下げたりすることができる、とある。つまり、役者も演出もより深い表現が可能となったということだ。作・演出を担当する長塚圭史が、プロデュース公演の演出や映画出演など、自らの団体やジャンルにとらわれず活動して、得てきたものなのだろう。

 『はたらくおとこ』の舞台は、厳寒の東北のある農村。買物帰りの妻子の交通事故死をきっかけに、都会を捨てた茅ヶ崎(中村まこと)は、潰れそうな工場を経営している。そこに集まっているのは、かつて引きこもりだった青年・前田望(中山祐一郎)と、その弟・愛(伊達暁)、そして謎の男・夏目(池田成志)だ。
 彼らは、資金難で閉園したりんご園を再開することを夢みている。作りたいのは、苦いりんご。それは、茅ヶ崎にとって、妻の遺体の横に転がっていたりんごの味だった。偶然、茅ヶ崎のその気持ちを知り、ひきこもりを止めて農園へ押しかけてきた前田望は、茅ヶ崎への協力を惜しまない。ヤンキー上がりだが、兄想いの愛は、なんとか金を捻出しようと駆けまわる。
 そこへ、農薬の使い過ぎで近隣の不評を買っている農家の兄弟、佐藤蜜雄(松村武)、佐藤豊蜜(池田鉄洋)などが入りんこんできて、事件が起きていく。

 『日本の女』と同じく、過去に何らかのトラウマを抱え、行ったり来たりする男たちの情けない姿が描かれる。出来事は幾つも起こるが、『日本の女』と比較すれば、テンションの高い演技や派手なギャグで誤魔化されることなく、すべてが淡々と進む。そして、その中から明確に浮かびあがってくるのは、「赦す」という行為だ—。
 前田愛は、簡単に金を手にしようと、何やらやばい化学物質(サリンのようなもの)を積んだトラックをどこかへ捨ててくるという仕事を引き受けてしまう。そして、居眠り運転で、工場へトラックを激突させる。その衝撃で、密閉されていたトラックの荷台の蓋が開き、化学物質が空気にのって漏れ出てくる。気付かないうちに、中毒となってしまった前田望。りんご園再開のため、他の人間を中毒にさせてはいけないと、自らが犠牲になり、蓋を閉めに行き、死んでしまう。
 一方、農薬の使用をめぐって対立していた佐藤兄弟。いつまでも使用を止めない蜜雄に対抗するために、工場へ家出してきていた豊蜜だが、迎えに来た蜜雄が持参していた認定外の強力な農薬を誤って飲んでしまい、死に至る。

 前田望の想いを背に、愛の後始末をしようと、現場の処理をかってでる茅ヶ崎。同様に、弟を死なせた償いから、蜜雄が協力を申し出る。二人は、トラックを捨てるのではなく、化学物質を工場内へと運んでくる。汚物のようなどろどろとした灰色の物体。茅ヶ崎は、おもむろにそれを口にする。そして、蜜雄もそれに続く。
 邪魔なものを捨てたとしても、問題が解決するわけではない。全てを受け入れよう。全てを飲みこみたい。全てを赦したい。それが「食べる」という行為になった。

 蜜雄がいよいよ中毒死した後、逃げたはずの夏目が戻ってくる。そして、茅ヶ崎に告白する。「奥さんと子どもさんを轢き逃げしたのは俺だ」と。しかし、おそらく知っていたのだろう茅ヶ崎はびくともしない。今、自分がこの物体を食べているのは、あの苦いりんごの味を求めているからだ、と答える。
 行き場のない自分の気持ちが、味覚と重なったときの生理的な快感。心の拠所を失い、その穴を一瞬でも埋めるために、再度、その快感を求めて生きていた茅ヶ崎には、ひょっとしたら、この汚物を口にすることは、何かを赦すという目的だけでなく、りんごと同じ苦さを味わわせてくれる絶好の機会と思えたのかもしれない。たとえ、それが死と引換であっても。
 思わず、夏目も汚物を口にする。

 そして、暗転。明かりがつくと、前田愛が工場にトラックを激突させたシーンに戻っている。もちろん、前田望も佐藤豊蜜も生きている。トラックに跳ねられた茅ヶ崎だけが、血まみれで横たわっている。あれ、今までは、死んだ茅ヶ崎の夢だったのか、と思いきや、突然、茅ヶ崎がぱっと跳ね起き、夏目を指さし、叫ぶのだ。「赦ス!」

 本当のことだったのか、茅ヶ崎の夢だったのか、それとも夏目の夢だったのか。「赦す」という行為は、そんなふうに日々の幻想かもしれないと思う。

 長塚は、ある一時から、男女や家族という人間関係の中での「赦す」ということを描くようになった。そして、20代という若さゆえの潔癖さか、たいてい登場人物たちは、誰かを赦すことができず、処理できない気持ちを爆発させ、悲劇が起こっていた。
 しかし、徐々に、それが変わってきている。『マイ・ロックンロール・スター』では、父親と強度の火傷を負った息子とが話をする場面があり、『みつばち』では、治らない感染病に罹った男女がセックスをするという終局があった。
 たぶん「赦す」ことは、無償の行為、自己犠牲の行為などでは、けっしてない。ひとは、自分が赦されたいのだ。また自分にとって都合がいいから赦すのだ。なぜなら、赦さないと、ひとは誰かを愛せないから。だから、自分のためであっても、赦さないより、赦したほうがイイ。
 そして、関係が続くかぎり、その「赦し」は美しいまま残ることなく、生活と感情の中へうずもれてゆく。そして、混沌とした苦しみと、本当の「劇」は、そこから始まる。


キーワード
DATA

同公演評
終わらない終末の悪夢 … 西尾雅

TOP > CULTURE CRITIC CLIP > 赦しの先にあるもの

Copyright (c) log All Rights Reserved.