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パフォーマー
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会場
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公演日
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青眉のひと |
松岡永子 |
はじめに「極(きわみ)」という企画のことを。 「この夏、驚愕に値する劇場プロデュースが姿を現す…」というチラシ・DMを見たときには「畳を敷いてあるんだな」と思っただけだった。確かにチラシには日本家屋の座敷から縁側が写っていたけれど、あくまでイメージ写真だと思っていた。だから、最初に会場に入ったときには驚いた。 入り口には行灯、提灯。木の格子に木の柵。受付は畳敷きの縁側でうしろに襖。下足置きがあり、案内してくれるスタッフはゆかたか作務衣。徹底している。板張りの廊下には坪庭風の植え込み、雪見障子。古びて黒ずんだ敷居と長押、腰高障子。漆喰風の内壁。古い旅館にいるようだ。(解体された民家を持ってきたのかとも思ったが、劇場プロデューサに訊いたところ畳表以外は新しく作ったものらしい) もともとの劇場はどちらかというと無機質な倉庫風の空間なので、ここまで「和室」になるとは思っていなかった。そしてその「和室」をどのように生かすかというのが劇団の腕の見せどころ、ということだろう。 女性初の文化勲章受章者・上村松園版女の一生。幼くして画才を発揮し、生涯独身、未婚の母となり、老いらくの恋(といっても四十代ですけど)に身を焦がし、七十四歳の死まで画業一筋に生きた…という従来の松園伝を、筋だけでみれば一歩も出るものではない。ただそれを、女(というか女の子)である、という視点で貫いて描いていく、その丁寧さ細やかさは、女の子が千代紙で人形の着物を作ったり、小間物を作って畳に並べていくようだ。それがこの「和室」としっくり合う。 幼い頃から年老いて死ぬまで(あるいは死んでからも)、二階の一室で絵を描きつづける。棲霞軒(せいかけん)と名付けられた通り、そこは時代や世間から隔てられた場所で、その中で松園は、幼女のように、仙女のように、天衣無縫にただ描いている。その部屋で羽子板やお手玉など付喪神と遊び、モデルとなる清少納言や六条御息所、楊貴妃とおしゃべりし、訪ねてくる画家仲間と語り合う。そこには生きているものもそうでないものも、そんなこと気にしないでやってくる。 松園はただ姉さま遊びをするように描いてきたのだと言う。何の欲も打算もなく、ただ遊ぶために遊ぶ子どものように、描いていたのだと。もちろん現実には、松園はプロの画家だったのだし未婚の母だったのだから、世間や画壇に対して何も含むところがなかったはずはない。けれどこの「女の子空間」の中では、それはほんとうのことなのだと思う。 この桃源郷の存在を支えているのは、母や姉、息子の嫁など女だ。辛いとき励ましてくれるのは清少納言たち女だ。女たちが女であるゆえに女を理解し支え合う。 女であるがゆえの風当たりは強い。けれどそんな外部から守ってくれるのも女たちなのである。これは女の子が夢見る理想のコミュニティだ。 絶縁を告げる恋人からの手紙が外からこの部屋にやってくる。外部には他人を利用しようとする思惑があり、興味本位の噂があり、世間体がある。都合が悪くなれば逃げ出すろくでなしの恋人たちも、けれどこの部屋にいるときには、単に恋しい人、だ。世俗から離れたこの部屋の中に悪意は存在しない。 戦争などで激しく揺れる世界の中にぽっかり浮かんだ「女の子空間」の夢のような美しさ。 劇中、幾つかの有名な松園作品をシーンとして取り込んでいる。やはり構図が美しい。 照明は座敷に落ちる自然光を思わせるおだやかな明かり。 清少納言などの衣装は松園の絵を思わせる鮮やかな色彩。生きている人々の着物は華美でなく日常的な、けれどよく考えられた瀟洒なコーディネイト。 押しつけがましくなく、調和的で、大人数の出る芝居なのにうるさく感じられない。 「極」シリーズでわたしは四つの作品を見たが、その中でよろずやの芝居がこの和室空間に最もしっくりしていた。登場人物が空間の中で自然に呼吸しているように見えた。和室を日常居住空間としていた時代・場所に材を取った作品が(わたしがみた中では)よろずやだったということもあるだろう。 他には「和室」ということで「日本的」ということを意識しているらしい作品もあったが、彼らが意識しているのは「和風」ではなく「日本風」だった(それは和室と日本間の違い、国語と日本語の違いと言えばニュアンスは伝わるだろうか)。和室への同化と異化のどちらが良い悪いということではない。和室を和室としてストレートに使う。その率直さが心地よかった。 「わたしが死んでも、わたしを知ってい人が誰もいなくなっても、絵が残る」という劇中の言葉。 絵を描いたり文章を書いたりする者がまず考えるナイーブな希望。人生は短いが芸術は永遠だから、と言う人も多い。 では目の前でこの芝居をやっている彼らが残す「もの」はなんだろう。ビデオで舞台を記録している。でもそれで「作品」が残ると思う人なら芝居などやっていないだろう。 同じ物語、同じ出演者でも日によって違う舞台。舞台は固定したものとしては保存できない。もし残るものがあるとすれば記憶だろう。その舞台を見た観客の記憶。死ねば失われる人間の記憶は、たとえばDVDのように半永久ではないかもしれない。けれど本来、人間の持つ時間の幅はそのくらいのものなのではないだろうか。 舞台は、その作品にもそれをとどめるメディア(記憶している観客)にもゆらぎがあって、固定できない。堅強は死の徒、柔弱は生の徒、という。固定できないのは生きているからだ。 生きていることは取り返しがつかない。そんな反復の不可能性、取り返しのつかなさが、わたしにとっては舞台の魅力なのだ。
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