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公演日
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OMSへの挽歌を、明日のキセキに変えて |
西尾雅 |
客電が絞られ開演、明かりが入った舞台の一角は父親と娘の朝食風景。出勤前のあわただしく喧嘩腰の会話は、急変する現代社会と世代の溝を投影する。父親役は木村保、うかつにもキャスト表で気づかなかったが奇異保の改名(紀伊保と名乗った時期もあった)と知る。再び来るビッグウェーブデイを信じる彼の回想が暗闇に浮かぶ。反戦フォークゲリラに呼応する津波のような人の群れ。熱い歌声、コードをかき鳴らすアコギ、ハンドマイクの喧騒、それは一体感に満ちた幻想の夜。けれど機動隊の侵入で蹴散らされ、すぐに悲鳴と混乱に陥る現場。ジィーカシャ。焼きついた記憶、かつて見た映像、カメラちゃんのように。目の前に再現される30年前の過去。記憶が脳裏に甦る。奇異保=木村保が長男を演じた、第1回OMSプロデュース「坂の上の家」がその記憶にかぶさる。ジィーカシャ。 2本の柱をそのまま残し取り囲む長方形の舞台、その中央舞台を挟んで向かい合うひな段の客席。奥側の柱の後に役者の出入り口、その左右それぞれに一段高い演技空間。いわばT字型の舞台、柱をTの縦棒に取り込み縦棒に相対して対称形に中央舞台を観るが、入口側の柱の先にも演技空間がある。観客はどこに役者が登場するか期待と驚きを持って中央そして両サイド90度に首を振ることになる。左右の壁に映される映像とのコラボレーションも刺激となって小空間の一体感を高める。 新梅田シティに新宿梁山泊から借用のテントを建てた第3回「夏休み」以来の東京ツアーなしの公演。OMS限定を逆手に取り、タイムリミットが迫ったこの空間へオマージュをこめる。舞台も客席も公演ごとに融通無碍に使える自在な空間、欠点のはずの2本の柱すら慣れ親しむとアバタもエクボとばかりチャーム度アップ。今回は、柱に何かを巻きつけ工夫をこらすでもなく、柱を柱のまま使い大波を予告するビラを貼る。メッセージを発信する劇場に、これ以上ストイックな自己主張があろうか。 OMS戯曲賞は上演された戯曲が対象ゆえOMSプロデュース公演は、当然あらたな舞台化を目的とする。これまでも「夏休み」で生バンドを取り込んでライブ感を出し、「ここからは遠い国」で廻り舞台を人力で回転させ、さまざまな演出を試みる。「滝の茶屋のおじちゃん」では戯曲を大幅に削り、読み換えのどんでん返しを用意した。けれど、ここまで戯曲を書き換えた公演は今回が最初で(そして必然的に)最後になる。オリジナルの戯曲に触発された、これはもう1本独立した作品といっていい。 かつてのプロデュース公演でも一部キャストをオーディション選考したが、今回は全出演者をオーディションで選び公演前の稽古場日誌をホームページで公開する。原作の3倍弱にもなる25人の出演者数とオープンな取り組みに、関西演劇のインキュベーターをまっとうする意気込みが伝わる。OMSでの公演をひとつのステップと目標に定めた関西の若き演劇人に最後まで場を提供し続ける。 ワークショップの発表会という声も終演後の客席から聞こえる。所属も経歴もさまざまな役者が集まるため演技の質は違い、違和感は短い稽古期間で解消仕切れていない。ダンスにも硬さが見られ、アンサンブルにも乱れはある。けれど、一発芸でのチーマーたちのハイテンション、てんでにべしゃる女子高生の不安さはとてもリアル。演技空間の素早い切り替えや暗転板付きのタイミングにも、カンパニーとして統一された集団美がある。劇団や個人を越えプロデュースのベクトルはひとつの方向を指し示す。 上演作と原作の最大の相違は、あらたに家族問題の視点を持ち込んだこと。前述の父・井上竜(木村)と娘・まゆみ(筒井加寿子)の確執や着ぐるみ依存症の昇子を抱える飛田一家の混乱、閉じこもりおタクの真に怯える母親など登場人物に奥行きと背景を書き加えた。行方不明になる女子高生もプチ家出をくり返すなど素行の乱れは、家庭に元凶があると匂わす。彼らの家族関係にメスを入れ、個人の内面を主体に描いた原作に社会的な視野を足す。竜を中年に置き換え、時間軸をひき伸ばすのも、世代を継いでメッセージを托すとの思いから。 原作では元天才記憶少年、もてはやされた過去を忘れられない青年の竜そして彼の元彼女に過ぎなかったまゆみが、大きなサブストーリーをなす。大波の再来を告げる狂言回しの役割は共通だが、上演作で竜は演出・生田萬の世代を代表する。深夜のビラ貼りをする竜は、かつての自分を取り戻そうと孤独な戦いを挑む。彼の願いは空回りし、一時は同調してビラ貼りに引き連れた町のチーマーたちは彼の娘をレイプする。彼らにとってまゆみは大波を呼ぶ儀式に捧げる生け贄に過ぎない。 倒れたまゆみをめぐって内輪もめを始める彼ら。彼らの醜態はその場しのぎで仲間内のコミュニケーションを取れぬ現代の病理。傷つき血を流すのは供物にされる女性ではなく、関係性を修復できない彼らの方。現場にいながら見て見ぬふりを通す勤務先の編集長もまたしかり。まゆみの恋の告白に煮え切らない態度で応じる編集長は、今回も逃げ去ることしかできない。同士討ちで自滅したチーマーたちから逃れた娘を父は抱きとめる。還らぬノスタルジーを思い知らされた父と貞操を失った娘に親子の関係は戻る。 そしてこの夜リセットされたもう1組。ビラの呼びかけに吸い寄せられ運命の出会いを果たした3人。見たままを脳裏に焼きつける直感像能力を持つカメラちゃん、ポラロイドを手放せず写した写真を握りつぶす真、そして全身着ぐるみを脱ぐことのできない昇子。3人の原型はここでも生田流の脚色がされる。義肢の障害者が車椅子を動かしカメラちゃん(森田かずよ)として登場した時のちょっとした驚き。健常者と異なる動きは、奇跡の記憶少女としてマスコミに人気、女子高生ファンも多いカリスマの印象を高める。何をキッカケに精神の逆行を引き起こすかわからないため、常に目隠しする必要があった原作の昇子。外界とのつながりをなくすため目を覆った彼女は、上演作では全身をすっぽり包む着ぐるみのこっけいな姿で登場する。衣服ごと引きこもる娘にかかりっきりの母と、そのために放置される夫や弟。典型的なバラバラ家族を戯画的に描く。弟は反発し夫婦はセックスレス、妻は娘の担当医との不倫を夢見る。 部屋に閉じこもってフィギュアに話しかけるおタクな真。息子の暴力に怯える母の姿は、新潟の少女監禁事件を思わす。ポラロイド写真を握りつぶす真はテンションの異様な高さに、こっけいさと不気味さを併せ持つ。上演作では、彼の別人格であるカイブツを実体化させる。巧みに少女を誘惑する謎の男が、もうひとりの真だと明かされる。とぼけた味わいと一本気なまなざしが混じる本多力と端正な色気に底知れぬ謎を秘める林真也の2人が、真/カイブツの分裂と葛藤を視覚化する。車椅子のカメラちゃん、大仰な着ぐるみの昇子、ダンス振付や映像の取り込み。ビジュアル化と体感を強調する仕掛けが散りばめられる。 Ugly ducklingの初演では、真を演じた原作者・樋口美友喜がナイーブな少年の中の衝動を鮮やかに引き出す。手にあまる力を怖れ哀しむ、引き裂かれたその姿に戦慄すら覚えた。圧倒的に女性劇団員を多く抱える同劇団で樋口と演出・池田祐佳理(上演作でも演出助手を勤める)は男役で中性的な魅力を放つことがしばしば。男でも女でも大人でも子供でもない不思議な雰囲気を漂わすが、ある瞬間に亀裂をのぞかす。女性の中の男性性、やさしさの裏にひそむ暴力衝動など人が持つ多重性に敏感に反応する。上演作で分裂した人格を振り分けた生田はオーソドックスな視覚効果をねらう。 暴走する真の衝動。抱きとめるつもりが握りつぶすまでに力をこめる。対象が可愛ければ可愛いほど制御が困難な矛盾した反応。押しつぶすほど過剰な愛。コントロール効かない感情をポラロイド写真を圧しつぶすことで代償する。第三者に伝えることが苦手で、自らの感情に引きずられ引き裂かれる。あふれる情報に振り回され自分を見失う現代の犠牲者を真は代弁する。 原作の昇子は深心逆行性の症状があり、アイデンティティが脅かされれば幼児期に精神が逆行する。外界からの刺激を避け彼女は目隠しされるが、上演作の昇子(後藤七重)は着ぐるみというやわらかな殻で世界を遮断する。刺激で記憶を失えば昇子は生まれ変わると同時に、過去の昇子は消滅する。その怖れで外界と対峙しない彼女は、傷つきやすくピュアな存在としてその極北にある。 記憶を失う昇子に対し、見たものを直感像として記憶/再生し続けるカメラちゃん。彼女の苦しみは、見たくもない記憶が再生されること以上に、見たいのものが自分でもわからぬ不安にある。与えられる映像ではなく、自分の見たいものを手にすることが彼女の願い。ここにも情報に彷徨い自分を見失う姿がある。 他人よりも鋭い能力を手にした3人は惹かれ、集まってキセキが生まれる。夜明けの光に彼らは溶ける。光もまた波。太陽の光を受けて海に生命が誕生し、その生命が人に繋がるように。生命の誕生もキセキなら、人の存在もまたキセキ。海から人は生まれ波に身をゆだねる。3人の出会いもキセキなら、1回限りのプロデュース公演もまたキセキ。観客も含め生の舞台は、それこそが毎回のキセキ。 原作で樋口は人体一覧にこだわり、記憶少年の井上竜は人体器官を羅列する。竜が口述するおびただしいパーツで人が成り立ち、そのパーツ名すら知らずに自分が存在することに驚く。「新・人体の不思議展」が今また公開されているが、徹底して解体され開帳される人体の内部にたじろぐ。考えれば、人は自分の顔を直に見ることはない。鏡に映る反転像か写真を通してしか自分を見ることはない。自分の外見すら認識できない人が、自分の心の内を見据えることのできようはずもない。一覧をそらんじる竜は、人を外形的なパーツとしては知る。直感像で記憶するカメラちゃんにもそれは可能。けっして消えることなく甦る記憶を前に彼女は立ち尽くし、失われる記憶の危機を抱え昇子は怯える。彼女たちも真と同じく制御できない自分の内なる力に傷ついている。 上演作は歌で始まり歌で終わる。歌/音もまた波であり、歌声は輪となり広がる。暗闇の中で友情と夜明けと愛を信じよう。恥ずかしいほどストレートなメッセージは、それを願う演出家から唱和するカンパニーに托される。水面に一石が投じられ波紋が広がるように、思いはいつの日か次のビッグウェーブの予告となるだろうか。記憶する私たち。忘れない、ここで出会ったこと、ここにあった劇場のこと。ジィーカシャ。あらたな記憶の始まり。忘れることはない、いつだってあの日のことはくしゃくしゃの写真となって埋められている。あの柱の足元に、観た人の心の中に。
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