log osaka web magazine index
WHAT'S CCC
PROFILE
HOW TO
INFORMATION
公演タイトル
パフォーマー
会場
スタッフ・キャスト情報
キーワード検索

条件追加
and or
全文検索
公演日



検索条件をリセット
今、キセキを物語ることについて—『深流波 〜シンリュウハ〜 』 橋本敦司
 第7回OMS戯曲賞大賞受賞作『深流波』は2002年5月に生田萬の構成・脚色・演出、オーディションで選出されたほとんどがまだ無名に近い25人の役者陣によって上演された。ちなみに初演は作者の樋口の所属する劇団ugly ducklingで上演されている。OMSプロデュース『深流波』は戯曲『深流波』が「原作」と明記されている通り、かなりの改訂がなされている。そこには49年生まれの生田と75年生まれの樋口と世代の違いがはっきり現れていて興味深い。これはある意味で別々の作品である。もちろん「深流波」の主題は両者に共通して存在するわけでそこがもっとも重要な問題を孕んでいるわけだが、それは後半で述べるとして、まずその主題への導き方について、筋を追いながら、また両者を比較しながら、そこから浮かび上がってくるものをひとつずつ考察してみようと思う。

◇自閉の形
 戯曲『深流波』は藍・昇子・真という自閉している3人がビックウェーブデイ(以下BWD)と書かれたチラシを手にとってそこに書かれた「キセキ起します」の言葉を信じてビルとビルの谷間で出会うことからはじまる。しかしそのBWDというのはもうひとりの自閉した人物、過去に記憶少年としてその特殊能力もてはやされたが、現在では誰も関心をもたなくなり再び人々が注目してくれること=2度目のBWDの到来を信じて先に進むことができないでいる井上竜によるものであることを3人は知らない。この設定に対して生田の『深流波』のBWDは井上竜という人物を青年から中年男性に変え、33年前、70年安保前夜のあの頃のように再びフォークソング集会を起そうとする、といった明示的な設定がなされ、自閉している者たちを外界へ導こうとする人物として描かれている点が、戯曲『深流波』とは大きく異なる点だ。

 物語の中心にいる藍・昇子・真の自閉の形だが、特に生田の『深流波』ではこれらの形も現代社会の病理と明確にリンクさせて描かれている。藍は直観像素質者という過去に経験したことが、その時の感情・意思・思考とともに何度も再生されてしまうという特異体質者として描かれているが、これは幼児期の虐待などが原因で大人になっても過去の残像が尾を引き、自閉したままでいる現代の社会問題に重なる。昇子は物語で「3番目の昇子」として登場する。「3番目」というのは、昇子は戯曲では目隠しをして、生田の脚色では着ぐるみをきて登場するのだが、それを剥いだ時にすべてを忘れて0歳児へ退化してしまうという人物で描かれている。治療法は「忘れられない思い出をひとつでもいいからつくる」ことしかないのだがそれができないでいる。一見典型的な自閉症児として描かれているのだが、着ぐるみ(または目隠し)を着ていなくては外の世界と通じることができない、また「忘れられない思い出」をひとつも持ち合わせていないという点は、今の若い世代を端的に表している。真は引きこもりという設定で、普段は幼く無邪気な人格だが、愛しい対象を目にすると強く抱きしめすぎて、意に反して握り潰してしまう「カイブツ」と呼ばれる人格を持ち合わせていて、劇中では女性連続殺人を犯している。ここでは宮崎勤幼女連続殺人事件から新潟少女監禁事件に至る引きこもりが引き起こす一連の事件が想起されるし、でなくても愛情の表現の仕方や、その力加減がわからない、という点ではこれもまた現代人の多くが抱えている問題として投影されているといえる。 こうした3人が、キセキによって自閉から解放されることに希望をもってBWDに集うわけだが、このキセキが、井上竜という人物の世界の内でしかないという悲劇が待っている。

 生田演出では個人の自閉だけでなく、集団の自閉性にも注目している。戯曲にはない5人のチーマーがここでは登場するのだが、彼らも徒党を組んではいるが、個々に自閉している。たとえばチーマー達がたむろしているシーンで、ひとりのチーマーが自分が最も興味のあるガンダムについて熱弁するのだが、耳を傾ける者など誰もおらずそこで怒りだし「おれは心の距離に怒っているんだ」とこう吐くのだ。ひょんなきっかけでチーマーらは、井上竜のBW同盟の呼びかけにその意味を全く理解しないまま参入してしまうわけだが、彼らは井上竜が作り上げた共和国の中で革命そっちのけで欲望の捌け口にしていくうちに狂っていく。ついにはBWDの取材に来た井上竜の娘まゆみを革命の生贄と称してBW同盟の旗の下でレイプするに至る。まゆみを殺してしまった(と思い込んだ)ことでBW同盟は内乱状態になり「これは戦争なんだ」と殺し合いを始めてしまう。それは60年代の連合赤軍を彷彿させるような、また「バトル・ロワイヤル」的な現代の若者たちの、一時も他者に隙を見せることができないといった張り詰めた人間関係と重なる。一方では、井上竜が夢見たキセキが最も大切な人を傷つけてしまうという、ここにも悲劇が待っているのだ。

 また集団の自閉性として、これも戯曲にはない昇子の家族を登場させた。自閉症の昇子を抱える飛田一家はすでに崩壊しているのを知りながら、家族の各役割を演じ続けている。しかしそれもいつしか限界がやってきて、母は昇子のカウンセラーである松本と不倫関係に陥って家をでていき、両親が昇子のことしかいつも見ておらず、「ボクをみて」と叫んでも振り向かれることがなかった弟の高志は「これだけが家族の証だった。けどもうお姉ちゃんにあげるよ」といって家の鍵を置いて、両親に対して「もう芝居はやめよう」と言い残し、出て行く。自分を押し殺してまで家族を守りぬこうとし続けたために崩壊に至ってしまう過程がここでは描かれ、もはや絶対的な集団であると信じられた家族でさえも、意味を失ってしまっている現実を映し出している。

◇セカイ 〜70年安保・米同時多発テロ
 以上のように、抽象的で物語ることに重点を置いた樋口の戯曲に対して、生田演出の『深流波』では明確に社会問題とリンクさせて、これら戯曲にはない要素がいくつも取り入れられたことによって、より重量感のある作品となった。この生田の戯曲の解釈・明示的な表現には賛否両論あるだろうが、こうした経緯が見られるのはやはり戯曲がかかれた時期と上演された時期の間に起きた米国同時多発テロが強く影響していることは間違いないだろう。

 生田は「世界」というキーワードを多用した。先にも述べたが、この樋口の戯曲と生田演出の『深流波』での決定的な違いは井上竜という人物設定だ。戯曲のテーマは、自閉してしまった若者のそれぞれの形を丁寧に描き、彼らに出会いをあたえ、BWDをきっかけに、「キセキ」というキーワードを使ってどう外界と繋がっていけるのか、という点に焦点をあてたものだった。ここでは井上竜も、「キセキ」という幻想にとりつかれた自閉した若者の一人物に過ぎなかった。しかし生田演出の中年男性・井上竜は冒頭からフォークギターを肩から下げ、拡声器を片手に登場し、岡林信康の「友よ」を歌い、外界へ呼びかけるのだ。

 「もっと世界に目を向けてください」「どうか自分のまわりで今何が起こっているのか見てください」「今もエルサレムでサラエボで・・・たくさんの人が死んでいっています」「私たちは心を痛めているのでしょうか」「闘っているのでしょうか」「血を流しているのでしょうか」「BWDは初めの第一歩なのです」・・・

 「33年前のあの時のようにもう一度・・・」と井上竜自身漏らすように、ある意味で彼も33年間自閉し続けてきた人物なのかもしれない。だが彼は今、この時になってBWDを起そうとするのだ。拡声器とフォークギター片手に、である。

 作家の樋口も、オーディションで選ばれた役者たちも、そして観客の多くが10〜20代であったが、果たしてこの生田の演出がどう解釈されただろうか。ラストシーン、BWDでキセキを起そうとした井上は、そのBW同盟で娘が生贄にされていたことを知り、絶望する。傷ついた娘を背負いながら井上は「もう同情も心配もしたくない/お前(娘)が生きていることがキセキだ/お前のそばにいたい/歌を歌いたい/昨日のではなく明日のために歌いたい」と語るのだ。ここで終わるなら話はわかりやすい。というのは、世界に目を向けろと叫んでいた井上は、一番身近にいた娘すら守ることができなかったわけだから、そこではじめて「自分にとっての世界」を再確認する。それは再び自閉することはもちろん異なり、シャガールの言葉を借りれば「一人一人の人間の愛を確かめることによってしか、この混乱した時代を生きのびる道はない。」という、そういったことこそ、「第一歩」なのだ、というメッセージとして受け止められるからだ。しかし、である。この井上と娘のシーンの後に、柔らかい光が射しこみ、チーマーや女子高生や飛田一家ら登場人物たちがスローモーションでゆっくり現われ、皆一様に井上の肩に手を添えて、暖かく微笑みかける。そして拡声器を手渡された井上は、再び冒頭の「皆さん、どうか自分のまわりで今何が起こっているのか見てください」〜を繰り返し、登場人物らは井上を取り囲み、井上の指揮で皆が「Will You Love Me Tomorrow」を合唱する。これをどう受け止めていいものか、正直今も戸惑っている。ハッピーエンドにしてはどうも後味が悪い。

◇神秘 〜フォーク集会・宗教
 物語のもうひとつの舞台にまゆみが勤務している雑誌編集部がある。ここでの冒頭シーンで無神論者の編集長がまゆみに「君は神を信じる?」と語るのだが、それに対して中盤のシーンでまゆみは夢の中で「神の声を聞いた」という。この夢の中で、これから起こる出来事(チーマーたちによるレイプ)も予知して、彼女は実際レイプされ首を締められ殺されるのだ。これがきっかけでチーマーたちは狂いだし互いを殺しあうのだが、そこへ殺されたはずのまゆみが登場し、泣き叫ぶチーマーらはまゆみに「助けてくれ」と乞うのだ。それに対しまゆみは「泣くんじゃない/助けてやる」と応える。まずまゆみが死んでいなかったという点だが、これはただ単にチーマーらが殺したと思い込んでいただけ、という解釈もできるが、その前の「神の声を聞いた」というセリフや、その後の「助けてやる」というセリフを考えると、どうもここはまゆみが何か超越した存在へと変化している、それは女神として君臨しているように描かれている。こういう経緯があってラストシーンで井上がまゆみに向かって、「お前が生きていることがキセキだ」というのだから、生田演出の『深流波』は非常に宗教的要素・神秘的要素が盛り込まれていることに気づく。これは『深流波』の主題になっている「キセキ」の問題と密接に関わってくる。私はここに強い危機感をもつのだ。

 『深流波』のエンディングで最終的に井上のフォーク集会=キセキは実現されるわけだが、その中心にまゆみという女神の存在がいるわけで、そこへ皆が曖昧な共感でもって集うという構造は、あのキセキを求めて集ったオウム真理教と何が違うだろうか。こう書くと宗教そのものを全否定するように聞こえるが、そうではなくて、問題にしているのは『深流波』で描かれているフォーク集会とオウム真理教などに共通して見られる安易な連帯意識であり、それが今、『深流波』という芝居として劇場という閉鎖的空間で行われているメタ構造に及んでいる点である。エンディングに登場人物全員で合唱するに至る連帯意識の形成過程がどうにも曖昧で、この辺りの生田の意図が明確でないのが問題であり、そのまま受け取ってしまえばただでさえ「キセキなるもの」に傾倒しがちな現代人の危険性を助長することになりはしないか、と危惧してしまうのだ。今、「キセキ」を物語ることはどういう意味をもつのか。

◇キセキ 〜今、キセキを物語ることについて
 井上竜によるBWD=キセキの真の目的を、ビルとビルの谷間に集った藍・昇子・真は知らず、彼らはただどうにもならない自分自身が「キセキ」によって変わることを希求しているだけなのだ。生田演出では、結局ビルとビルの谷間に集った3人の前に、「キセキ起します」というチラシを撒いた井上竜は最後まで現れないのである。3人にとっての井上竜はいわば神であるのだが、待てども待てども現われない、というのはまさに「ゴドー待ち」そのものだ。

 しかし樋口戯曲と生田演出の『深流波』両者で問題になってくるのは本当のキセキが起こってしまうという点である。そのキセキは藍・昇子・真の3人の「出会い」によって起こる。〈自閉した世界が、「出会い」によって、「キセキ」を起す〉これが『深流波』の主題だ。藍・昇子・真の3人にどういった形でキセキが起きるかを簡単に説明しておく。3人はBWDをきっかけに出会い絆を深めていくのだが、キセキはまだ起こらない。次第に真と昇子の間に恋愛感情が芽生えてくる。真は愛しい対象を目にすると強く抱きしめすぎて意に反して握り潰してしまうという性癖をもっているため、愛しているからこそ抱きしめることができないのだが、昇子は真に「ぎゅうってして」という。それが意味するのは「真が潰してくれたらもう4番目にも5番目にもならない」ということであり、なんとも皮肉で屈折した関係性が描かれている。そしてもうすぐ夜明け、朝日がビルとビルの谷間に差し込んだとき、昇子は「まこっちゃん、キセキの波だよ」といい、藍が「違う。それはただの朝日」といっても聞かず、着ぐるみ(目隠し)を脱ぎ始める。昇子の記憶はどんどん消えていく。そこで、真は消えてゆく昇子を救うために自らキセキを起そうとする。それは昇子を潰さないように抱きしめることができるかどうか。できればそれは真にとっても昇子にとってもキセキになる。しかし真は昇子を抱きしめるが、力が入り過ぎないよう自身の腹部を握りつぶしていた。結局二人は意識を失ったまま永遠(?)の別れが訪れる。その「キセキ」の一部始終を見ていた藍は、それまで過去の記憶の再生しかできなかったが、「今を見る」ことができるようになり、生田演出での藍は障害があり車椅子を使っていたのだが、ラストシーン、街の人ごみの中で昇子と再会を果たすシーンで(昇子はキセキによって自閉を克服したようだが、藍・真との出会いの記憶はおそらく消えている)、車椅子から立ち上がり、軽やかに躍り、昇子に投げキッスをして幕を下ろす。

 世の中には「キセキなるもの」は確かに存在する(それが本当のキセキかどうかは別として)。『深流波』ではこうして「キセキなるもの」を越えて、本当に「キセキ」が起きる。つまり、誰かが何らかの「キセキ」を起こす装置を仕掛けて、無意識にその仕掛けの内に入り込んだ者(または入り込んでから無意識になっていく者)はこれを「キセキ」と受け取ってしまうわけで、これを「キセキなるもの」と称しているのだが、本当のキセキは、言うまでもなく誰も介入できない神秘的なものである。『深流波』で起こるキセキは、はじめは井上竜による「キセキなるもの」を起こす装置としてBWDが提示されているのだが、これを超えて説明のつかない「キセキ」が起きるのだ。これを「愛」といった一言で片付けしまうのならそれこそ問題であり、この混沌とした世の中にあって、現代人のこうした「愛」とか「キセキ」といった一言で片付けてしまいがちな傾向は、同時に「思考停止」という言葉で置き換えられもするのだ。

 たとえば神秘的要素の強い作家に、80年代を代表する野田秀樹や、90年代を代表する松尾スズキがいる。彼らの作品はキセキが起こる一歩手前、もしくはキセキが起こりそうで起こらない、といったものが多い。自らの作品を野田は「祈り」と、松尾は「お経」というように、彼らもまたキセキの到来を待ち望んでいる。が同時に絶望もしている。彼らはキセキを起こさない。「キセキなるもの」がどれだけ多くの悲劇が生むか、それを物語る。

 キセキは神秘であって説明できないものなのだから、そもそもその過程など描写できるはずがないのはもちろんである。キセキは突然起きる。キセキとはそういうものであるから、劇世界においてキセキを起こすことは簡単で、ドラマを盛り立てるには好都合である。だが現実はどうか。キセキは都合よく起きてはくれない。都合よく起こるキセキはいつも「キセキなるもの」であって、その先には悲劇が待っているのだ。

 私は思う。今、キセキを物語ることは、一時の「癒し」にしかすぎないのではないか?私たちはこうした時代だからこそ、曖昧な共感で寄り添うことをしてはならないのではないか?一人一人が孤独であることをもう一度自覚することから個人としての、または集団としての自閉から解放され、外界へ目を向けることができるのではないか?そのために今、「キセキなるもの」で片付けられてしまうものこそを、慎重に見つめなければならないのではないか?その先にもし「キセキ」を物語るのであれば、「キセキ」という言葉はタブーになるに違いない。「キセキ」という言葉を使わずして「キセキ」を描くことにこそ演劇である必然性が生まれてくるはずだから。

キーワード
■戯曲 ■奇跡 ■自閉 ■神秘 ■世界
DATA

同公演評
OMSへの挽歌を、明日のキセキに変えて … 西尾雅

TOP > CULTURE CRITIC CLIP > 今、キセキを物語ることについて—『深流波 〜シンリュウハ〜 』

Copyright (c) log All Rights Reserved.