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パフォーマー
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会場
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公演日
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新劇場に表明する継承の意思 |
西尾雅 |
スペースゼロ、OMS、近鉄劇場と劇場閉鎖が相次ぐ大阪の小屋事情に風穴を開けるべく劇団側が動き、大阪城ホール付属の大倉庫を仮設劇場として利用することに成功、ウルトラマーケットと名づけての柿落し公演。OMSの3倍あるという広さ、高さもAI・HALL並みかそれ以上。むろん、照明バトンや空調など劇場としてのインフラはまったくなく、電気も電源車で供給するが、不自由と可塑性は表裏一体。アイディアしだいで、おもしろい使い方ができそう。大勢の人間が集まれば必須のトイレも、すぐ外の公園に完備。 大阪城ホールの西口、ホール外側を一周しないとたどり着けないため最寄駅から意外と時間はかかる。途中何箇所も劇団員が道案内と誘導に立つが、街灯もほとんどなく、劇団員の灯すわずかな懐中電灯が頼り。入場前の整理番号確認も暗いために不便。けれど会場内は居心地良く、寒さ対策に使い捨てカイロと毛布を配る役者パフォーマンスで開演前から盛り上がる。今回は各回限定80人、前から3列ベンチシートと3列の椅子席。消防法のせいか前列が桟敷でなく、列の段差も少ないため後ろからは若干観にくい。劇団の配慮で寒さ対策は十分、野外テントで吹きつけられる風に比べれば天国。天井が高く、空間にゆとりがあるので夏の暑さもしのげるかも。 「二十世紀の退屈男」は「唇に聴いてみる」と並ぶ内藤の初期代表作、六畳一間を舞台に唐十郎が名づけたスーパーセンチメンタリズムが匂い立つが、青春の悶々とした自分探しをねじ伏せるかに次々くり出される荒技が今も鮮度を失わない。けれども、最も感動したのは、入替りの激しい劇団員に集団アンサンブルが継承されていること。住む部屋を求めるさまざまな人々の思いまでもが甦るよう。それは再現ではなく、今現在の劇団員が生み出す活発さ。映画や公演ビデオのような再生ではない、演劇は生身ということ。たとえ稽古場兼劇場のOMSがなくなろうと、ライブという演劇の原点さえなくさねば、不死鳥のごとく生まれ変われる。 無知を告白するが、南河内万歳一座と新感線で小劇場を初体験した私は、初めて唐組「模造石榴」を観た時、何と万歳に似ていることかと思った。事実はむろん逆で、内藤が唐の影響下にあるのだが、今回は何とUgly ducklingの世界と似ていることかと思う。近松劇場「木偶の坊や」(脚本:樋口、演出:内藤)を観ただけでアグリーと内藤の関係はよく知らないが、本作の主人公と額傷の男のように、分裂する自我というモチーフはアグリーにもしばしば共通する。万歳がみずからを再生し続けるように、生み出した作品もまた自己増殖し、さまざまな影響をどこかに及ぼしている。それが、生身の肉体が持つ伝染力の強さを証明する。
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