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古典芸能を学ぼう
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+ 源甲斐智栄子

地歌との出会い

—先生が地歌に触れられたのはいつ頃のことだったのですか?

「地歌は20代になってからなんですけど、まず、5歳の時にお琴をはじめました。
 お琴にも歌があるんですが…(笑)。
 とにかく歌が上手くなりたいな〜と思って、地歌のレコードを聞いていたんです。」

—お琴へのきっかけはお母様が勧めて下さったのですか?

「そうです。私はピアノがしたかったんですけど、母のお琴が家にあったんです(笑)。あんな重たい大きな物(ピアノ)は買われへんし、お琴にしなさいと言われて…。オルガンはさせてもらえたので、オルガンと同時に習い始めました」

—今思えば、ピアノでなく、お琴のお稽古にされていて良かったですよねえ〜。

「(笑)今から考えると洋楽は世界ですからね。邦楽は日本が本場ですし…」

—日本一は世界一。ピアノって、多くの子が習い始めるけど、すぐに挫折している子も多いですよね〜。私もですけど…(笑)。
  お琴はどこで習われたんですか?

「子供の頃、家から近かった天満宮で習っていました」

—お母様に勧められてとのことですが、途中で嫌になってしまわれたりとかは有りませんでしたか?

「大嫌いでしたよ。最初は。
 “お琴のお稽古行く”とか言うて、公園行って、ブランコから落ちたりしてね」

—(笑)

「いまだに罰があたって指が曲がっている(笑)。そういうのをしながら、ある時学校の体育の時間に鎖骨を折ったんですよ。それで、それを良いことにしてお琴のお稽古をズルズルと1年くらい休んでました。そんな時、ふと見たテレビで、お琴のコンクールで優勝した女の子がお琴を弾いていたんですね。それを見て、もの凄く感動して…また、弾きたくなったのが小学校6年生くらいの時でした。
 そこからは凄く好きになって、本気になりました。中学の時もとにかくお琴に夢中で、その頃に芸大というのがあるのを知ったんですが、勉強はそんなに好きではないけれど、そこに行けば大学でお琴の勉強が出来る。そう思って、その時から芸大に行こうと決めていました。お琴を習える、その理由だけででしたね」

—それで東京芸術大学に行かれた…。凄いですね。邦楽学部ですか?

「そうです。音楽学部邦楽科というところです」

—その学部は、大体何人位いらっしゃるんですか

「私の時は1学年に5人でした。年によっては0人とか3人とか、5人は多い方だったんです。私は1人現役組でしたけれど、浪人の方も多いので年齢はまちまちですね」

—今は科目も選択出来ますが、試験は全部あったんでしょう?

「そうです。数学はなかったと思いますけれど、その代わり音楽理論というのがあって、それは洋楽の人と同じペーパーテストでした」

地歌の発声

—地歌の方は、三味線とか、お琴とか、胡弓とか色々の楽器を演奏されますでしょ?
 習得されることが多くて大変ですよねえ。

「江戸期のある時期からお琴と三弦、胡弓(後に尺八)を“一緒に演奏してみよか?”ということになって三曲合奏になりました。
 それでその時くらいから、地歌の演奏は、お琴も三味線も胡弓も弾けないといけないようになったんですよ。
 大学でも、お琴の者は三味線も弾けなくてはいけない、ということで三味線の授業がありました。それで高校生から三味線も習い始めました。」

—先生の青春は芸の習得のために有った訳ですねえ〜。
 もうその頃からプロになることも決めてはったんですか?

「いえ、別に決めてません。三味線もまあ、指を動かすのは好きという位で特別好きというのではなかったです。
 けど、大学の授業に講師として富山清琴(とみやませいきん)さんという方がいらっしゃって、あの方が大阪の方で、地歌を勧めてくれはったんですよ」

—それは、澤先生の声が良いと見込まれて、それでそうおっしゃったのでしょうねえ。
 地歌は例えばクラッシックのような発声練習とかはするのですか?

「しないですね。発声は各人やりたい人がやってるというだけで、教える時に特に発声練習をしたりはしないです。」

—1曲1曲を順々に教えてもらっていくということですか?

「そうです。私の場合は、発声の仕方を意識して勉強することが出来ました。
当り前だけれど、発声というのをちゃんとしていないと、洋楽にしても邦楽にしてもちゃんとした声は出ないんですよね。
 洋楽の声楽の人は横隔膜がこう下がったらこうなって…とか、ここを響かせて…とか、それを考えた発声をしはるんですよ。
 声楽は全身を響かせるんですけど、邦楽は出し方は一緒だけど響かせる場所が違うと思うんです。」

—もう、全然知らなくって恥かしいんですけど、地歌も義太夫節とかのように腹筋を使うんですか?オペラとかは、明らかに腹筋を凄く使っているというのが分かりますが、 地歌は何か余り分らなくって…。

「それはもう、凄く使いますよ」

—義太夫独特のイントネーションがあるように、上方の地歌のイントネーションっていうものもあるのですよねえ?そうしたものをお稽古で口伝されていくのですか?
 また、先生は理論的なこともお教えになったりされるのですか?

「イントネーションはもちろん歌によって全然違います。
 それと例えばお琴を教えるのでも、1人1人骨格とか、筋肉の付き方とか、手の大きさとかが違う訳だから、教える時には“こうした方が解り易いのではないか?”ということを理論的に考えて、だからこういう風にしてみなさいと言ってはいました。
 だけど、その理論、言っても結局は解らない…一緒なんですよね。
 実はその解らない部分で、皆が勝負しているんですよ」

プロであるということ

—でも、それは、先生のような秀でた芸術家を目指す方は、その解らない部分で勝負されるんだと思うのですが、プロを目指さない方が、ある所まで辿り着くためにはその理論は役に立ちませんか?習う者の生理とすれば、出来なくても知っておきたいという気持ちはあります。

「外国って、ピアノや演劇を趣味でされる方って少ない気がするんですよね。
 日本のようにアート系のカルチャースクールってないような…日本のように子供の頃にピアノを習う子が沢山いる、みたいなのってない気がするんです。
 だから日本では教えるための先生も必要とされるけれど、外国は最初からアーティストを目指す人が、自分で努力して、その解らない部分を解っていくんですよね。
 プロの認め方も違う…プロの人数も少ないし、その代わり外国では、プロと認められた人は、国がちゃんと守ってくれますよね」

—なるほど…。そう言えば海外のアーティストに世襲はないですよねえ。

「でも、日本は家元制があるお陰で、それを習う人口は守られているんですし、増えていくんですよね。だから文化が続いているのは家元制のおかげと言えると思います」

—日本はそうしたシステムのおかげで、お稽古人口の裾野を持っているにも関わらず、日本人で自国の文化を語れる人って凄く少ない気がしますね

「本当のプロも少ないですしね。特に、古典芸能の観客は、お弟子や関係者以外の一般のお客さんは少ないですものね。プロという人も、実は主婦であったり、OLさんであったりして、これだけで食べていける人が少ない。だから芸を極めきれないし、お客さんも増やしにくいのかも知れませんね。
 私はバックのない人間で、恩師もなくなりましたし必死でした。一般のお客さんに来て頂けるようにシンセサイザーを用いたり工夫もしましたが、その時はお客さんが入って下さっても、完全な古典になると難しいし、だからと言ってそうしたことを続けてしていると、この世界ではアウトローみたいになりますし…。
 芸大の仲間は、もともとその家に生まれた方ばかりですからね。
 色々やってきましたが、今は素直に自分の目指したい所を目指して、芸を磨くことだけを考えて進んでいきたいと思いますね」

—今、中国の方の女子十二楽坊が来て流行ってますが、あれ、澤先生やったら1人で出来ますのにね(笑)…。まああれは音楽がどうとか以上に、若い見映えの美しい人をオーディションで選んで、演出的にも成功してる訳ですけど。日本の楽器で日本のアーティストででは何故ないのかと…。

「(笑)マスコミの力って大きいですものねえ」

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