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古典芸能を学ぼう
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+ 源甲斐智栄子

 集合は大阪市立中央会館、ここでコースの簡単な説明の後、出発をします。
 前に野崎観音のことについて書かせて頂いたことがありますが、この会館の裏が、ちょうどお染久松の油屋があったといわれている場所で、久松は油屋の蔵で首を吊りました。
 中寺に入る前に、近くですので近松門左衛門のお墓に寄ります。ここでは全景を見て頂きたい。全国各所に門左衛門のお墓はありますが、一番活躍した大阪のお墓が一番しょぼいのではないでしょうか。歌舞伎文楽の正式な外題を一つも言えない人でも、近松門左衛門の名前を知らない人は少ないと思います。それほどの人のお墓がこれか・・・という感じです。

 中寺は名優達のお墓銀座?です。
 妙徳寺には二代目三代目中村梅玉のお墓があります。

 

 二代目梅玉は天保12年(1831)、京の五条坂の鍛冶屋の子として生まれたとあります。子供芝居を経て三桝大伍郎の実子が没したため養子に入りました。時代物世話物問わず風姿口跡がよく、立役女方を兼ね晩年は老け役をよく演じたそうです。大正10年(1921)、81歳でお風呂で心臓麻痺で亡くなるまで舞台に立たれていたそうで、初代鴈治郎の脇役としても活躍しました。
 三代目梅玉は二代目の養子で、鴈治郎の女房役を勤め東西で活躍。昭和10年(1935)鴈治郎が没した後は六代目尾上菊五郎と組み「日本一の女房役」と云われています。

 薬王寺には片岡仁左衛門七代目から十一代目初代中村富十郎初代岩井半四郎や忠臣蔵の大高源吾のお墓などもあります。

 七代目仁左衛門(宝暦5年1755〜天保8年1837)も、もともとは京の子供芝居で修行をしてきた中村十蔵の門人だった人。
八代目も養子さんらしいのですが、この人の初名は初め七代目市川団十郎の養子だったため六代目市川新之助だったというのも面白く思いました。
九代目さんも養子でこの方のお父さんは捻り人形を発明した絵師亀屋吉兵衛(隅田川彦六・画名西川国春)です。花形の立役として実事も女方も兼ね和事を得意としたそうですが33歳で亡くなっています。
 十代目は八代目の三男でエピソードの多い人です。父親の厄年に生まれたので、捨子として母の姉婿の三代目嵐璃寛が拾い上げ、土から生まれた子として土之助と名付けられ、改めて父の八代目に養子として入ったとか、襲名に関するいざこざで憤慨し狂死とか・・・。椀久、椀屋久右衛門なども狂死とあるのですが、狂死って何だろう?これ、前から気になっていました。気が狂うほどのショック、これは分かる気がするのですが、ここからどうして死に至るのか、こうした病気があるのでしょうか?精神をコントロール出来ないことによって食事が取れないとかそうしたことで亡くなるということなのでしょうか?
 ・・・すみません。話がそれてしまいました。
 十一代目は八代目の四男さんで、先に亡くなられた十三代目のお父様、現在の松嶋屋三兄弟のお祖父さんにあたります。
 初代中村富十郎(享保4年1719〜天明6年1786)は初代芳沢あやめの三男で京鹿子娘道成寺を初演した人、初代岩井半四郎(承応1年1652〜元禄12年1699)は有馬の扇商の子で座本と役者を兼ね大活躍した人です。

 その近く法性寺には片岡十二集「鰻谷」の八郎兵衛の墓がありますのでそれに立ち寄り、圓妙寺に。

 圓妙寺にはかって上方の名門であった京桝屋、三代目四代目三桝大五郎の墓、そして上方の歌舞伎ファンがその名の復活を熱望する河内屋、実川延若の代々墓があります。三代目三桝大五郎(天明2年1782〜文政7年1824)の子が四代目三桝大五郎(寛政10年1798〜安政6年1859)で、三都随一の大立者と云われた人です。
 初代実川延若(天保2年1831〜明治18年1885)は大工職の子に生まれましたが、芝居茶屋河内屋の養子となり役者となった人です。この人の門人に初代鴈治郎がいます。初代延若の長男が二代目延若(明治10年1877〜昭和26年1951)で、鴈治郎の相手役を勤め、器用さから人気が高く、その長男、三代目は大正10年(1921)生まれで今年が十三回忌。私の記憶の中にもその古風な風情は生きています。

 久城寺にある「曽根崎心中」お初の墓は、多くの文献に「ない」と記されているものですが、現在はあります。ですので、これも是非見学して頂き、正法寺の初代三代目中村歌右衛門、三代目中村芝翫の墓へ。

 この三代目芝翫(文化7年1810〜弘化4年1847)の墓も「難波の太夫」と云われた中村富十郎の墓と間違えて記されているものがあります。杉下賢三さんという大変詳しい方に例証をあげながらその理由をご説明頂きましたが、面白いお話ですので当日、杉下さんから参加者の方にお話して頂こうと思います。三代目芝翫は早逝でしたが、花形でありながら贅沢をせず、身を慎み、芸道に励み弟子の指導も怠りなく行ったことが奇特なこととして幕府より褒美を受けています。
 三代目中村歌右衛門(安永7年1778〜天保9年1838)は長い歌舞伎の歴史を通してもビッグスターで、寛政元年(1789)大坂中の芝居で初舞台を踏み、天保6年(1835)古今無類総芸頭という歌舞伎役者の最高位に上がりました。
 ここには初代中村歌右衛門(正徳4年1714〜寛政3年1791)、三都随一の実悪として名を残した後の初代加賀屋歌七(かしち)の墓もあるそうです。

 常國寺の初代中村鴈治郎、四代目中村歌右衛門の墓碑でも、四代目歌右衛門のものが、三代目中村翫雀とされている文献があります。四代目歌右衛門(寛政8年1796〜嘉永5年1852)の俳名が翫雀で、それが墓石正面に書かれているため間違いが伝わっているようですが、杉下さんに言われて裏面を見るとすぐにそれが違うことが分かりました。こうした古いものは調べるのが難しいですね。間違えて、間違えたまま引き継がれ、断言されてしまっていたりしますから・・・。ある程度の知識があれば疑問を持つことも出来るのですが、なかなかそこまで到達しません。
 初代中村鴈治郎(万延1年1860〜昭和10年1935)はご存知、「頬かむりの中に日本一の顔」と称された大阪が生んだスターです。

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